月光のカルネヴァーレ(2007、Nitroプラス)

月光のカルネヴァーレ月光のカルネヴァーレ
(2007/01/26)

なんかぶっちゃけ書くことないので、twitterにPOSTしたことの転載。


やはり「これが日常」みたいにやられると(明文化されると)つまらないよなぁ。カルネヴァーレプレイ途中の感想。カルネヴァに限った話ではないけれど(しかし最近のエロゲでは結構見かける気がする)。日常なんてものは本来存在せず、擬制で、遡及的に導き出されるものである、ということを考えるべきだ、とか思っちゃいます。過ぎ去ってから、日々が「日常」に位置づけられる/固着するのですよん(ドゥルーズ・潜勢性/遡及的過去生成)。「日常」とは果たして何か、といえば、別の――ありとあらゆる(一般的な意味での)概念と同じく、「差異」のうちに垣間見えるひとつの点(あるいは面/場)でしかない。その形成は無論、差異とともに在る時にしか生まれ得ない(だから”遡及的”なのだ)。そのへん、エロゲにおいて「日常」が謳われだした始祖とも云える麻枝准高橋龍也氏はよくご存知で。過ぎ去った後にだけ、日常が生まれるようになっている。作中において(おける)「大文字の日常」を仮構する、それがいかに”日常ではないか”、そのところを始祖は良く分かってるわけです。対し現代では「この時間が日常」というのを”この時間に在りながら”モノローグさせちゃうように、日常を仮構し、ラベリングし、押し付けている。まったくもって、我われプレイヤーにおける「差異の内から発見された」日常ではなく、差異がなくともハナから存在している「日常」として、ある種インスタントに(手軽さと、(プログラミングで用いるアレのような)複製さ)生成されている。
しかしこれは、ある意味では正しい。「主人公のモノ(主人公の日常)」としては。我われにとって差異なくとも、彼にとっては既に差異がある。その意味で、カルネヴァーレにおけるその扱い方は正しいでしょう――主人公の自律性という意味では、より現代エロゲ的に正しい。ただ他の凡百のエロゲにおいては何の憂慮もない酷いインスタントさが目に見えて困るときも結構あるけどね!(アレとかアレとか) ――なんてことはない、手軽に楽しめるように、インスタント化してしまっただけであり、経済的に正しい後退であるのです。
戦闘だるいっつうのもありますが、やはり、奈良原一鉄の世紀に居るわれわれにはこれはもはや――「もはや」としか言いようが無かったりするわけです。ウロブチ世紀ではあるかもしれないけど、奈良原世紀ではない。それは何かといえば、この全体を雁字搦めに貫く「二項対立」と「囚われ」ですね。所与の前提、同一性、主体客体、価値と意味、それら全部を棄却するところからはじまる奈良原通過後には、二項対立とか「そもそもそんな二項なんてないんじゃね」という疑義が止まず収まらない。
しかしそれを反転して肯定に向かいましょう。つまり、カルネヴァーレは、二項対立と囚われを一貫している――それらにさらに囚われている――ゲームである。良し悪しは別として。否。ここまで貫けば、そういう意味では「良い」のだ。判断は別として、という話である。
「がんじがらめ」「いかに縛られてるか」というお話である。そうなのだから、勿論、がんじがらめや縛ってるものと対立するお話である。つまり、がんじがらめや縛っているものと戦い・それを乗り越える、お話である――あった。
人狼・人間・人形/過去・現在/オルマロッサ・ルパーリャ ――二項対立・かつ縛るもの。 血/親父(頭目)/運命・糸/そして自分の思いすらも ――己自身を縛るもの。
基本的に、そうやって「切り取る/分割する」所作だらけなんだけど、まあ逆にそれを評価するべきなんでしょうかね。たとえばノエルシナリオで強く出てきた「生きてく意味」とは(という言葉とは)、尊いものでも超越的なものでもない。いや、尊さや、超越的な身振りを仮構するもの、とは言えるでしょうが。「生きてく意味」。それは、ある観点から生を切り取る所作に過ぎない。生にはありとあらゆる可能性があり、そも現在性があり、さらに潜在性がある。にも関わらず、「その意味」で生を切り取れば、その意味にそぐわない事物は生において余剰・過剰なだけのものとして廃棄されるか、あるいは、個々の事物の意味や意義が剥奪され、ただ「その意味」に回収されてしまうだけである(もちろん、そこにおいて、余分は余分として処理されるだろう)。 ――そう、だから、たとえばそのように。「切り取る」というのは、分割されていないものを・分割不可能なものを、無理矢理分割して、その権威に他の事物を従わせる所作――仮構に過ぎないのです。
だがしかし、そうでなければ、人は生きていけないとも言えるでしょう。いや、むしろ、人が生きている場は常に分割されていて、だからこそ、分割された表象こそが人の生きる場なのだから、対応項もそれで良いのだ、と言えるかもしれません。カルネヴァーレは、そういったものを徹底的に貫いた。―――ということは、つまり、そういうことなのでしょう。