Sugar+Spice 2

Sugar+Spice2Sugar+Spice2
(2010/07/30)

システムとかキャラクターを別とすると、前作『シュガスパ』のキモは(特に『恋文ロマンチカ』なんかと比べた時のシステム・シナリオ・キャラ以外での最大の差異は)、「記憶喪失」と「what a little girl made of.――女の子ってなんでできてるの?」の二つにあったと言うことができるでしょう。後者――「what a little girl made of.」は、ゲーム冒頭に意味深に語られ、まるで本作のテーマのように標榜されることによって、そして、そうであるにも関わらず最後までその(明確な)答えが明らかにならないことによって、作中においてエピソードを選ぶことにより構築された日々を纏め上げる力能を持っていた。女の子を構成しているステキななにもかもの答えは分からないのだけど、各々の個別シナリオラスト部分(あるいはエクストラエピソード)が示唆するように、または「EVERYTHING NICE!」が暗喩するように、”この日々全てが”そのステキななにもかもに当てはまるかのようであり、当てはまりきらないようである。そして、そうであるが故に、この日々にはただの女の子攻略を越えた輝きが存在していた。
――考えてみれば、「EVERYTHING NICE!」とはまさにそうだったのでしょう。あれは全員のED見れば出てくるファイナルエピソードでして、そして全員のEDさえ見てればよくて、つまり全員のEDさえ見ていればその過程=道中=日々は気にしないということです。エピソードを全部洗って探してコンプリートしてようが、必要最低限だけをプレイして極々僅かなエピソードでEDに至ろうが、あるいは誰かに告白してフラれて別の誰かに告白して上手くいったけれど後に別れてそしたらまた別の誰かに今度は告白されて付き合ってみてそのままEDなんて過程を辿ろうが、EDにさえ至っていれば何だって同じなワケです。つまり、どんな日々だったのかは問われていないということであり、ということはつまり、”どんな日々であろうとも”EverythingNiceだということ。
同じようなシステムの『恋文ロマンチカ』がぶっちゃけつまんなかった理由の一つとしてその辺を挙げることもできるでしょう。『恋文』は、日々が筆(習作システム)に結実されるにも関わらず、筆(習作システム)が恋(攻略アイテム)を生むこととしてしか機能していない。簡単に言えば、筆のために、別に見たくもないエピソードすら選択したい気分にさせられ(選択しないと損した気分になる)、かといって習作極めたら作家デビューとかそういうのがあるわけじゃなく、単純に作家になれるシナリオならなれる/なれないシナリオならなれない、という形で作られている。つまり、日々と筆は恋を生む=女の子攻略に回収されるのだ。日々が(習作システムにおいて)筆に回収されながらも、筆の生産物(すなわち日々の生産物)が攻略アイテムでしかない。恋すら筆の糧とせよ、と言いつつも、筆の生産物が恋しかないという、女の子攻略で纏められてしまう円環が出来上がっている。ただの女の子攻略に回収されてしまうのなら、選ぶ必要がないエピソードを選んでしまうなんて無駄すぎて辛いのだ。その点、これは『Sugar+Spice』ですから、『2』においても、その「what a little girl made of.――女の子ってなんでできてるの?」は生きています(1よりはコンテクスト的に弱くなったとはいえ)。けれど「記憶喪失」という機構は失われている。


システムというのは物語を作り出し、物語というのはシステムによって作り出される。当たり前ですが、セリフやモノローグ、出来事や状況・状態の変化をつなぎ合わせたものだけが物語になるのではなく、たとえば映像作品ならイメージが(その連鎖が)、ゲームだったらその体験やシステム構成が、物語を時に象徴的に、時に暗喩的に、時に本質的に、作り出したり構築したりしている。明確なRPGやアクション・シミュレーションジャンルではなく、こういったノベル・ADV色の強いエロゲだと、そこにおけるノベルやADV的でないシステムの持つ意味が一般的にはあまり重視されない傾向が強いかと思うのですが、いやむしろそここそを重視するべきだと思うので勝手に重視したいと思います。つまり、何かと言うと、たとえば『少女魔法学リトルウィッチロマネスク』では、お話の進行の大部分はノベル・ADV形式でありながらも、その他のゲーム進行は「サイコロを振る」というシステムにより構成されています。これがどういう意味を持つのかというと、サイコロを振る=運=運命という要素のメタファーですね、実際に個別シナリオというのは大半が運命に関わるお話であり、であるからこそゲームの進行は運命に支配される「サイコロを振るという行為」に握られていた。さらにこのゲームの場合は出目をある程度操作できるものであり、つまりそれもまた運命をある程度操作する(曲げる・変える)ということに象徴的に繋がっている。また、たとえば『祝福のカンパネラ』では、後から考えると(つかプレイ中でも)特に意味が無かったと思えるくらいに必然性の感じられない戦闘シーン演出(まるでRPGのような画面になる/実際の操作はRPGではなくただ選択肢を選ぶだけなんですけど)が入りまして、つうかあそこまで作りこんで選択肢とか勿体無い、ここまでやるなら本当にRPGとかアクションにしちゃった方が面白いんじゃないのとか思ってしまいますが、しかし選択肢であることにも意味がある。殆どの選択肢が「周りの話をちゃんと聞いて」「周りの言う事(助言)を信じて」さえいれば正解を選べるものであり、つまり戦闘パートが選択肢で出来ているというのは(作中でも何度も出てきた)「信頼」ということを体現する/再現前させる為に必要なモノであった。

では『Sugar+Spice!』は?  ―――前作においては、そこに「記憶喪失」という要素が大きく絡まっていた。ゲームの進行はエピソードを「選ぶ」という形式なのですが、選んでないエピソードも後々に「あの時どうこう」と言及されることがあるように、「あったこと」になっている場合が多々あります。多々というより、”矛盾が生じない限り全て”かもしれません。その辺を実証する術はありませんが、しかし明らかにプレイヤーが選んでいないのに和真(=主人公くん)が体験しているエピソードがあるのです。この齟齬は、システム上どうしようもなく起こりうる齟齬ですが、しかし『シュガスパ1』ではそれをシステム内の必然レベルに落ち着けている。『シュガスパ』のシステムは、プレイヤーがエピソードを選択することによって構築されているように見えますが、選んでないエピソードでも主人公が体験しているように、実はそうではありません。プレイヤーが選んでいるのは、プレイヤーが「見れること・見ること」であって、和真が「体験すること」とイコールではない。つまり私たちが選んでるのは和真の体験ではなく、私たちが見ること(知ること)が出来る和真の体験のどれか、を選ぶということに他ならない。これは換言すると、「私たちが覚えていることを選んでいる」ということが出来るでしょう。和真の経験の中から、プレイヤーが知る・見る=つまり覚えていることを選ぶ。ならばこれは、プレイヤーとプレイヤーキャラクターの同一性といういつものコードも加味しつつ、この齟齬は、和真からすれば「プレイヤーが記憶喪失である」と言うことも出来る。プレイヤー=和真の体験から、プレイヤーの記憶だけがポロっと落ちている。
これはMAPを巡る構造だからこそ起き/そしてだからこそこのゲームはMAPを巡る構造なのです。主人公の父が考古学者だというのが暗に示している。ゲームプレイというのは(作中でも出てきた)考古学と相同するように喩えられ、つまり、MAP上を巡ること=フィールドワークであり、エピソード(アイテムリスト)集め=発掘であり、それを行なうプレイヤーが和真を導く者/和真がプレイヤーを導く者=考古学者である。だからこそMAPを巡る構造なのです―――そこには勿論、もう一つの要素「what a little girl made of.」も存在します。女の子ってなんでできてるの? は、ゲーム冒頭でテーマのように標榜されながらも、その答えは決して解き明かされない。「ステキななにもかも」が何なのかは解明されない。それは中心にありながら中身がない/中身が問われていない/中身が機能していない、ある意味「この構造を為すため形式的に中心に置かれているもの」として、つまり「空虚な中心」として、中心に座す。どこまで行っても「what a little girl made of.」の中身は不明であり、であるからこそ、また彼女たちへの感謝で「EVERYTHING NICE!」が締めくくられるからこそ(そこは『2』も同様)、この日々全てが/ここ(EVERYTHINGNICE)に至るまでの日々全てが、その中身のようであり/中身ではないようであり/中身なんてないかのようであり、つまり日々が女の子攻略などに回収されないで、ステキななにもかもでありつつそこにすらも回収しきれないで、純粋に、その輝きを保てていたのです。


では『シュガスパ2』はどうか? ―――というと、おおよそ同じというか似ている感じです。ぶっちゃけ、『1』のコピー。キャラとシナリオと設定が(当たり前だけど)総とっかえされただけの『シュガスパ』、と言っても過言ではないくらい(勿論システムなんかも多少は変わっていますし、音楽は全部違いますが)。ただ2作目だから「what a little girl made of.」はコンテクスト的に弱くなっているし(あとあれは「記憶喪失の主人公」だからこそ十全に機能する)、そしてなにより「記憶喪失」設定が無い。今回の主人公は記憶喪失ではないのです。
その分、先に記したような「齟齬」は非常に抑制されています。つまり、「選んでないエピソードを主人公が経験している(あったことになる)」という現象が非常に抑えられている。前作は選んで無くても「あの時どこどこに行った」と言及されたり、たとえば司から告白されると初エッチが見れなくて、選択可能なエッチイベントはいきなり2回目のエッチになってる(僕らが見てないうちに和真くん済ませやがった!)みたいな齟齬がありましたが、そういうのが(そういうのを感じさせるテキスト・イベントが)ほぼ無い。和真が体験することではなく、和真が体験したことから私たちが見れることを選択するというのが前作の構造でしたが(齟齬を合理的に解釈するとこうなる)、しかし今回は齟齬が(ほぼ)ありませんから、つまりここでの選択は、「響(=主人公)が体験することを選択する」というごく真っ当な形に概ね落ち着きます(※齟齬は絶無ではないので、概ね)。
では行動=MAP上の選択の指針は何処に置かれるか。あるいは、MAP上の選択は”何に回収されるか”。前作においては、そこにプレイヤーと和真との齟齬――つまり「プレイヤーの記憶喪失=記憶回収」がありました。見れば見るほど、私たちの失われた記憶を回収していくという形になっており、また記憶を失くした和真が自己を安定させる(EveryhitngNiceで語られるように)ための道筋にもなっていた。選択という行動はそこに回収されていた。では『2』はどうか。記憶喪失というある種メタ的な操作がなくなったために、そしてプレイヤーの選択=(あるいはニアイコール)響の選択となったために、前作のような屈折はなく、単純に、響の行動指針=プレイヤーの行動指針/プレイヤーの行動指針=響の行動指針のような式が出来上がる。では響の行動指針は何かというと、それは作中で幾度か語られたとおり。

響 「楽しい事とかおいしいものって世の中に一杯あるんですよ」
響 「それこそ、毎日全力疾走している人でも、見つけきれない程に」
姉さんはあれだけ生き急いでいれば、どこかで興味が尽きることもあるかもしれない。
でも、まだまだ世の中は楽しくて、おいしいものも沢山あるらしい。
響 「だから、知らないのはもったいないです」
世の中楽しんだ者、勝ち。
病は気から、じゃあ逆もあり。
俺が姉さんに教わった生き方で、合言葉だ。

「楽しいこと」「楽しむこと」が生き方であり合言葉であり、つまりは行動指針としている。もちろん、誰かに優しくしたり誰かを助けたりといった指向もあるんだけど、彼にとってはそれすらも「自分の為」であったりする(「人の幸せも自分の幸せも、響くんにとっては、全部自分のためなんです。ひどいエゴイストなんですよ、彼」と銀河に見抜かれていたりするように。それどころか八方美人の暴力性までも薫子に指摘されていたりする(「そこまで言って、結局困っていれば私でなくても良かったって事じゃない。そんなの、気持ち悪いほど乱暴でひどい話だわ」))。
これらは姉さんから受け取った(あるいは教えられた・感じ取った)生き方である部分も大なり小なりありまして、だからある意味では姉さんにより支配されるという甘く優しいセカイでもあるのですが(<父>の項に収まるのが高圧的な大人や恐い男性ではなく、甘さと優しさと厳しさと凄さ(尊敬)を併せ持つ姉さんなのだ。どちらにしろ<父>の項に何かが(仮であっても)収まらなくてはならないのだから、姉さんのような理想的な対象をそこにさっさと据えておくという所作は、ある意味現代的でしょう。ゲームのルールにこそアクセスする、という意味で)、いずれにせよ響くんの行動指針にそれが宛がわれている。当然ですが、その「楽しむ」という指向、それは私たちプレイヤーとも相同する/あるいは、単純に相性が良いものです。私たちが何でゲームやるかといったら、その理由のひとつには「楽しみたい」があるからです。だから私たちは/響くんは行動する。「楽しみたいから」。
前作はその部分(行動の理由・行動が回収されるところ)が「記憶の発掘」であり、だからこそ前作はより素晴らしいというかメチャクチャ上手かったのですが、今回はそこを、もっとシンプルに、単純に、むしろ能天気に、ただ「楽しむ」という指針で突き抜けてみせた。楽しみたいからエピソードを選んで、楽しみたいからクリックして、楽しみたいから会話して、楽しみたくて物語を進める……そういう風に、纏められていたのです。

もちろん、単純に「楽しむ」ということ自体に功罪は在る。個別シナリオはそこを突いてきました。

薫子 「そうねえ……天本くんって基本的に、娯楽か必要かでしか行動しないじゃない。その辺が原因じゃないかしら」
薫子 「楽しみたい以外で目標のためにがんばるとか。そういった目標を持ってるのって見た事がないのよね」

それが響くんの行動指針なのだけど、それだけでは進んでいけない場所がある(だから個別シナリオはどれも、いったん別れそうになる/離ればなれになりそうになる)。そこでいったん、この指針は見直され/問われ/向き合うことになる。(姉から得た)その指針を再考し練り直すことによって、新たな自分のモノとして確立していくわけです。前作における記憶喪失でもこれと近い処置が施されており、思い出した記憶と記憶喪失のまま過ごした日々(の記憶)とが見直され/問われ/向き合うことにより、そこでもまた新たな自分のモノとして確立されていった。
記憶を巡る発掘をシステムとプレイヤーの結節点においていた前作に変わり、今回はそこを、ある意味能天気なくらい単純に、「楽しい」という指向でまとめてみせた。それにより、キャラやシナリオの好みや評価は別にするとして、システムとそれがプレイヤーにもたらすものを考えた場合、前作ほどの深みはなくなりましたけど、瞬発的な楽しさは増したのではないかと思います。