麻枝准と奇跡と理不尽

この世の全ては理不尽でもある。たとえば人間いつかは死ぬわけですが、それだって理不尽と言えば理不尽だ。寿命というものがあって、細胞は劣化し朽ちていき、細胞分裂にも限界はあって、また病気というものがあって、ウイルスが身体を蝕み、また事故というものがあって、外部から肉体を崩壊させるほどの衝撃があったら人は耐えられなくて死ぬ。そんな世界の法則だって理不尽と言えば理不尽であって、だってなんで細胞は劣化すんのよ、なんでウイルスを自動で駆除できないのよ、なんで肉体は何者にも負けないほど頑丈じゃないのよ、という疑問に、そういうものだからとしか答えられないという理不尽な法則に支配されている。そんなこと言い出したら物理法則とかもそうで、たとえば重力が現在の度合いであることも、地球の公転周期が現在の値であることも、月が一個しかないことも、なるほど現在の状況から遡れば必然ではあるのだけれど(というかそうだからこそ現在がこうなってるわけだけど)、でも「そうなった」部分は理不尽なくらい強制的に決められている。

だから、麻枝さんにおけるいわゆる奇跡(以下「いわゆる」省略)みたいなものも「理不尽」である。渚が死ぬのは理不尽だし、修学旅行のバスが事故るのも理不尽でしょう。しかし渚が死なないのも、大事故から皆助かるのも、ある意味理不尽なのではないでしょうか。単純な話、たとえば、CLANNADのアフターで、渚が死んで汐まで失って、そこで「理不尽に」物語が終わることに憤怒したプレイヤーも少なくなかったのではないでしょうか? むしろその先こそが見たいんだ、という。よくこれら奇跡と呼ばれる事象に「都合良く奇跡が起こって助かって」などと称されたりしますが、しかしプレイヤーからすれば決して都合が良いとは言い切れない。むしろアッチの物語が(も)見たかったのに、何でここで終わっちまうんだ、という理不尽な都合の悪さもそこには孕まれていたのではないでしょうか。奇跡により助かる/救われるということは、奇跡が起きないで助からない(助からないかもしれない)/救われない(救われないかもしれない)物語が僕らの眼前から奪い去られるということである。悲劇を掛金に奪われてハッピーエンドをもたらされてるんだけど、その悲劇を見ることは叶わない。その悲劇の先からの脱却を見ることも叶わない。

さて、話が逸れたので戻すと、その奇跡のメカニズム、それが理不尽だということです。たとえば光の玉を集めて奇跡が起こるとかいうメカニズムは、端的に言えばワケが(道理が)分かりませんが、ということは、そのワケの分からないメカニズムは最早存在そのものが理不尽であると言える(たとえば光の玉を13個集めなくてはならない必然は何処にも描かれていない。なのに10個でも20個でもなくて13個なのだ。そんな攻略上の都合のような個数設定がまかり通っている)。それでも集めれば奇跡が起こるというのは、理不尽にも「そうだと決まっている」自然や物理や人間の法則と同じくな、ひとつの「理不尽な」法則であるでしょう。つまりここにおいて奇跡というのは、物理法則などと同じく――あるいはこの世界における物理法則のひとつとして――理不尽に存在している。換言すると、メカニズムそのものに対する選択の余地なく理不尽に存在していて条件を満たすと発生するという点においては、物理法則も奇跡も何ら変わりはない。

Angel Beats!』において、それは心的なものと世界的なものに集約されている。肉体を斬ろうが殴ろうがどうしようが死ぬことはなくて、つまり生命は精神(意思)に還元されている。肉体の頸木は、もちろん限界はあるでしょうけど限りなく減少されていて(むしろ現世における肉体の限界を超越したような運動能力を多々見せている)、ならば自己を縛るのはどうしようもなく逃れられない世界そのものと、どうしようもなく捕らえてくる自身の心そのものに集約される。そこから、生前における理不尽と戦っていくワケです。しかし、生前における理不尽はすべて身体的なものが介在していたのだけれど(列車事故で死ぬ・歌えなくなる・妹弟を殺される・寝たきりになる・心臓をもらう*1)、ここでその身体という要素は理不尽の枠から逸脱する*2。そうなってくると、ここでは生前の理不尽との非対称性が生じてきて、つまり、身体要素が逸脱してしまっているからこそ、どうあっても(生前の理不尽の解消が)現実的には叶わないという理不尽がここで生じてくる。身体と云う要素そのものが剥奪されている以上、正当な解決はない。だからたとえばユイは、運動だけでは決して満たされず、(結婚してやんよという)言葉においてはじめて満たされるところまで至ったわけです。この肉体は動いて当たり前なのだから、そこでいくら動こうとも達成には至りようがない(また同時に、この世界で幾ら叶おうとも達成には至りようがない)。そのように、その代わりの、心的において解決するという象徴的な実現――というかそれしか方策はないということになり、だからこそ、いわゆる「成仏」という結果で、彼らは生前の理不尽に対して折り合いを付けられるようになるのですが、しかしそこには身体が剥奪されるという事態そのものが剥奪されるという「理不尽」が存在していて、それに対し象徴的に(心的に)対処するという「理不尽」もまた存在している。しかし、だからこそ、それは象徴的には、現実世界における理不尽と何ら変わりないでしょう。つまり形は変わっても、だーまえさんはだーまえさんであったということです。そうたとえば最終話ラストの、来世なのか前世なのかユメなのか妄想なのかただの視聴者サービスなのか実はぜんぜん関係ない他人の空似なのか分からない、あの二人の邂逅直前もまた、理不尽にも出会うことになりそして理不尽にも出会う直前で物語は終わり映像が閉じるというあの作りもまた、いつものだーまえさんであった。単純に、奇跡も現実もユメも、ぜんぶぜんぶ理不尽なのです。

*1:心臓をもらった感謝を伝えたいという希求であって、「理不尽」とイコールで紡がれないけれど、いちおう。

*2:身体における理不尽が消失するという意味ではなく(どんな肉体的ダメージ負っても死なないというのは、それはそれで理不尽)、現世=生前における身体の限界を越えてしまったのでそこにおける理不尽の埒外に置かれるという意味です(埒外における理不尽なら(たとえば前述のように死ねないという形で)在る)。