『FORTUNE ARTERIAL』について

なんだか驚くほど共通ルートが面白い作品でした。
ただおしゃべりしているだけ、が面白いのです。ただおしゃべりしているだけだから面白いと言ってもいい。それは物語的に前進するためのコミュニケーションではなく、ただ言葉の交換から生まれてくる感情(楽しさ)の往復運動であり、それだけで十分だった。言うなれば、アニメにおける『けいおん!』やラノベにおける『生徒会の一存』と同じ。感情の交換でも情報の交換でもない、何にも回収されない(敢えて言えば、ただ交換の為の交換としての会話)往復運動が、「物語のため」という目的論的犠牲に陥ることなく、ただそれとしてあるが故に(結果論としては、まるで逆説的に)感情と情報の交換に落ち着く。それは領土化・脱領土化・再領土化へと繋がっていく。

「お茶会」の構図が印象的というか、ある意味ではこの作品を象徴してるのではないでしょうか。あのお茶会というのは、主人公の部屋で行なわれていて、傍から見ると主人公がヒロイン同士を結び付けてるみたいに見えなくもないですけど、中身は寧ろ正逆に近い。あるイミ主人公置いてけぼりなんですね、お茶会の構造は。自分の部屋という場所を提供して(提供する羽目になって)、そこを介して沢山のヒロインたち同士・キャラ同士が結び付いていくのだけど、勝手に部屋に入ってこられるように、寝ている間にお茶会が勝手に始まってるように、もうここは主人公”の”モノではないのです。自分の部屋が自分の部屋でなくなってしまう。……とはいえそれはもののたとえで、実際には名実共に孝平くんの部屋なわけです。ただ、形が変わった――自分ひとりだけの空間としての部屋ではなく、他の誰かが居るかもしれない空間としての部屋に――という形に。そういった脱領土化と再領土化。そもそも孝平くんは引っ越してきたばかりですので、自分の部屋自体を領土化するところからはじまるのですが、そこで落ち着く暇もなく、前提-根底そのものを揺るがしてしまう。

脱領土化されて別の形として再領土化される―――そういったテリトリーにまつわる運動がこの作品には肝のように散りばめられていました。なんてことは吸血鬼(吸血/血)というギミックや『FORTUNE ARTERIAL』というタイトルを考えてみれば当たり前というか、然るべき結実でもあるでしょう。他人の中に私を入れる(入ってしまう)、私の中に他人を入れる(入ってしまう)。血とか家族とかあるいは珠とかが、連なるようにそうであるように。



そういう点から考えると、個別シナリオに入るための選択肢がMAP形式であるのもまた必然なのでしょう。何度も同じキャラを「探してカーソル動かしてクリックする」という行為が、わたしたちプレイヤーに対して領土化的効果を与えている。キャラを選ぶだけならMAP移動なんてしなくてもいい筈なのに(しかもMAPを1画面に納めるならまだしも、3画面分にする必然なんてぜんぜん感じられないのだ!)、わざわざあのような工程をあのような形式で踏ませる、そのこと自体が、「選び・そのルートのお話をみる・孝平とその子をくっつける」というわたしたちの行為自体を認識させ、そこに領土的作用を作り出していく(だからわざわざ3画面もあったということです)。

瑛里華シナリオ

特に瑛里華シナリオはそういったお話でした。別れを約束された転校生活は、彼から他人と繋がろうという気持ちを奪っていった/あるいは、見えないように(自分でも気付かないように)していった*1。それは瑛里華も同じで*2、もちろん実際の行動・対処はまったく逆だったのだけれど*3、他人と仲良くなる・近づくという作用に対する態度は同様のものであった。失うのだから、手に”は”入れない。非領土化。

しかし答えも道もそれだけではないだろう。失うのだから手には入れないのであるならば、失わないなら手に入れようとするのだろう、とでも言わんばかりに。

瑛里華「冷たかったり、寂しそうに見えたりしたのなら――」
そこで、副会長は手を前に差し出した。
瑛里華「私と手を繋ぎましょう」

瑛里華「他の人とでもいいわ」
瑛里華「近くにいる人と繋げば、きっと温かいし、寂しくないと思うの」

誰かと手を繋げば、それだけで―――ということが語られています。私でもいいし他の人でもいい、近くにいる人でいい、というその語り口はある意味節操の無さを感じさせますが(要するに誰でもいいから手を繋げと言ってるようなもの)、しかしそれは逆に、手を繋ぐという運動そのものを強調しているでしょう。”誰か”という不特定な彼と手を繋ぐこと、それは(相手が指定されない”誰か”なのだから)ただの、身体のあるいは体温の交換でしかないのだけれど、そんな些細な交換が、その繋がりそのものを私の領土とさせてくれる。

あるいは、わざわざ吸血鬼の能力として「記憶を消す」を用意して、それを受け入れないことによって瑛里華たちを受け入れる/生徒会に受け入れられるようになる、といったところもそうであるように(記憶は自分自身の領土だ)―――つまり記憶を維持すること・ならび吸血鬼を受け入れることから、彼女たちを受け入れる・友達を作るという行為がはじまるように。人と人との繋がりとは、交換することや受け入れることや与えることからはじまる領土の問題に他ならない。
好きになるとか恋愛するというのもまた――というかそれこそが、まったく赤の他人である相手を内側に入れるという行為こそが、領土化運動の最たるものでもあるでしょう。相手を自分の内に入れて自分を相手の内に入れる往復運動であり、そもそも――たとえば、そこからはじまっていたとも言える*4し、最後までその運動は維持されていたとも言える*5。一緒にいたりお喋りしている間はまるで別世界であって*6、身体的接触という繋がりは再領土化的に新たなものを作り出す*7。そして、その行き着くところが、自分の血を相手に与えて/相手の血を自分に取り込んで、繋がっている存在に/離れられない存在に、する/なる、という「眷属」であるのは当然と言えるし、必然と言える。物質的交換からはじまる肉体的縛りという、象徴的でも表象的でもない実質的な契約。


眷属化=血による実質的領土化が瑛里華ルートなだけに(だからか)、「真」が付く方の瑛里華ルートはその逆側でした。家族というのは血縁や戸籍ではない(だけではない)。それこそラストに、新しく家族を作る(再構成する)際に伽耶が口にしたように*8、「家族は作られるものである」。つまり、「真」のほうでは、血という逃れられない肉体的契約ではなく、心や精神の問題である、象徴的な契約――その領土化についての話。そちら側から結論が導き出されている。そして最終的には、瑛里華と孝平の子供が出来るように、身体的結びつき/象徴的結びつき、その両方が回収され纏められるわけです。


瑛里華シナリオ以外ではこういった見解は別にあてはまんないんですけど、血と欲求と恋とフォーチュン・アテリアルな瑛里華シナリオなら、こういったこともそれなりに言えるんじゃないかなーとか、そんな感じです。
要約すると、

孝平「自分の体が、好きな人の血となり肉となる」
孝平「これ以上の快感は、どこにもありません」
(真・瑛里華ルートより引用)

まさにこの一文の通り。私をあなたの内に/あなたを私の内に、入れる/迎えることは、身体的にしろ象徴的にしろ、最高の快感なのである。

*1:『確定した別れが恐くて、人とつながる場を避けていたんだ。そう。俺がなかったことにしてきたのは、人と深くつながりたいという、本当に単純な欲求だ。』(FA本文から引用)

*2:『そこにあったのは、最初から終わることが決まっている日常への、諦め。そして、近づきたくても近づけない人たちへの、羨望。わかりすぎるほど、わかる。かつての俺と似ているからだ。』(FA本文から引用)

*3:『俺は積極的に関わることをやめた。満たされない欲求をなかったことにして。副会長は、まったく逆だった。関わって関わって、自分が存在した証を残そうとした。満たされない欲求の代償として。』(FA本文から引用)

*4:『瑛里華「自分の事を知ってもらって嬉しいのは、血が欲しいのとは関係ないでしょ?」瑛里華「だから、私の気持ちは血に支配されていないわ、おそらく」』(FA本文より引用)

*5:『瑛里華「他人の気持ちはわからないわ」瑛里華「でも、だからこそ期待する言葉をもらえたときが嬉しいの」瑛里華「だから、孝平を眷属にしたくなかったの」瑛里華「好きだって言われたときの嬉しさを失いたくなかったから」』(FA本文(瑛里華シナリオラストのほう)より引用)

*6:(携帯で話すのを終えて)『別世界から帰ってきたかのような気分だ。世の中のカップルは、皆この気分を味わってるのだろうか?』(FA本文より引用)

*7:『人に触れられるというのは、本当にいいことだ。それが好きな人ならなおさらだ。性欲とは違う部分の欠損が満たされていく気がする。そして、やや遅れ、いとしさがこみ上げてきた。』(FA本文より引用)

*8:伽耶「残るも去るも自由だ」伽耶「残った者で再び家族を作る」伽耶「それが、あたしの考えた償いだ」』(FA本文より引用)