「エロゲ/泣きゲーにおける白痴性」について

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さてたとえばキミが萌え4コマ好きであり、そんなキミの前に「けいおん!」と「ひだまりスケッチ」と「GA」のアニメ版だけ見て「萌え4コマはほにゃららだ」とかドヤ顔で言い出している奴がいると思ってくれ―――あるいは、時節を加味するなら、ワールドカップしか見てないにわかサッカーファンが、もちろんニワカであることは悪くない、だがしかしにも関わらず「何かスゲー分かってる」顔で語りだす姿、それを想定してみてくれ。しかも上から目線なのだ。どうですか、ビックリしたでしょう。
この話はつまりそんなこととはまったく関係ない話である。いやこれを書いてるぼく自身が何かの混乱をきたしたのでよくわかんない(あまりにも―――、酷かったのだ)。

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「なぜエロゲヒロインに白痴が多いのか?」――この命題は嘘である。エロゲヒロインに白痴は多くない。どこからどこまでが白痴か? という天秤を主観に依拠した上で記しますが、僕がプレイした09年発売エロゲ約25タイトルの中で「それっぽい」ヒロインはゼロに近い。さらに「泣きゲー」がエロゲのメインストリームのように語られていますが、これも嘘である。09年発売エロゲの中で「泣き」が(ネット上の感想などで)大声で謳われていた作品なんて、『タペストリー』と『ナツユメナギサ』くらいしかなかったと思われる*1。つまり極めて少ない。2chベストエロゲランキング上位の『BALDR SKY』『俺たちに翼はない』『装甲悪鬼村正』『星空のメモリア』『さくらさくら』『しろくまベルスターズ』『コミュ』『真剣で私に恋しなさい!』エトセトラエトセトラ……いずれも「泣きゲー」ではないことは明白でしょう。そのうち何本かは「泣ける」ものでもあったけれど、しかしそれだけではなく、笑えたり、萌えたり、燃えたり、などといった点が、泣きと同じくらい、あるいはそれを上回るくらい施され、満たされている。現代における泣きゲーはもはや存在しない――たとえばKeyや、あるいは桜井光スチームパンクシリーズ(といってもインガノックとシャルノスだけかもしれないが)や、もしくは突発的に出てくる『タペストリー』や『ナツユメナギサ』のような作品……そう、そのくらいしか存在できていない。端的に言えば、現代においては複合的な要素こそが評価される。たとえば『マジ恋』は、『つよきす』に比べ「笑い」以外の部分がかなり強化されている――そうだからこその高評価であった。
そもそも「泣きゲー」というものは難しい。泣かせようとして悲劇を作中に盛り込んだら「鬱ゲー」という新ジャンルを作ってしまった2000年〜2001年頃の現象(『果てしなく青い、この空の下で』『銀色』『水夏』『君が望む永遠』という00夏〜01夏頃発売作品に代表されるような)は、ひとえに「泣きゲー」の難しさに由来する。そういう点では、パッケージ裏に「100万人が泣いた!」と大きく描かれた*2ように「泣きゲー」の始祖であるといっても過言ではない剣乃/菅野*3の後を継げたのは、『ToHeart』におけるマルチシナリオと、『ONE』と『Kanon』と『AIR』〜つまり久弥直樹麻枝准しかいなかったといえる。”そこから”、鬱ゲー化のような紆余曲折を経て泣きは続いていくわけですが、しかし「泣きゲー」というのは「萌えゲー」に比べるまでもなく、「バカゲー/ギャグ・笑いゲー」にも全然足りず、「燃えゲー」よりもさらに少ない弱小ジャンルになった/なっているのである。その理由は前述したように「難しいから」の一言に纏められる。剣乃/菅野・久弥・麻枝という存在がジャンルの基準を(非常に高いレベルで)標榜してしまったので、それについていくのが難しいという単純な理由である。方法論次第では――つまり前任者の方法論に合っていなければ「鬱ゲー」などと呼ばれてしまう。そういうサブジャンルである(そもそも泣きゲーとは、シナリオゲーの一形態に過ぎない……無論Key=麻枝はそこから除外されるが)。

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さてここで話を戻そう。”この場合の「白痴」”というのを、何処を基準に何を定義に誰が判断するのかという論理的な疑問をひとまず棚上げにし―――つまりイメージと印象による、それ故ファジーな語りに終始することを前提とさせて頂くが、なるほどKeyヒロインの幾ばくかは「そのようで」もあり、また先に挙げた現代の泣きゲー『ナツユメナギサ』の一部ヒロインも、09年作品においては珍しいことに、幾ばくかは「そのように」見えるかもしれない。フェミニズムもレイプファンタジーも、またそこを敢えて転倒することにより生じる快楽にすらも自明の現代エロゲにおいて、女性は弱者の表象を抱いていないのは既に常識である。ならばこそこれは、泣きゲーの構築要素――あるいは、泣きゲーをさらに加速させるための一装置なのでは/なりえるのではないだろうか。なぜKeyヒロインが白痴かというと、要するに月宮あゆ神尾観鈴の設定年齢は18才を絶対に越えているにも関わらず、見た目はもっともっと下――というより、「少女の表象としての少女」と呼んだ方が正鵠だろう、(その頃の)樋上いたるの絵は人間の少女ではなく「人形の少女」のような表象性-翻訳性を持っている。つまり見た目上は明らかに「少女」であり、内面もそれに則した、小学生か、あるいは中学生くらいの少女に見えるのに、年齢は18歳以上である――「18才以上」という建前の年齢ではなく、設定上推測される本音の年齢を考えても、やはり16〜18才前後であり(つまり高校生だ)、だからこそそこに白痴的齟齬が生まれる。
余談だが現代の能美クドリャフカはそこのところまったく上手くギャップを付けており――ああ、お前はいい加減プレイしろよという話でもあるのですが(「しかしこんだけ色々言われましたが直近で大ヒットって「クドわふたー」なんですよねぇ・・・」 最早残酷だよキミぃ!)――クドは見た目と口癖が白痴に見えるだけで、まさか「クドわふたー」をプレイしてクドを白痴とか言う者はいないだろう(シナリオのある意味での”のほほんさ”は、それを強化するように見えかねないが)、ってくらい、内面はそうではない。大人になろうと頑張ってる女の子であり、そもそも勉強は(主に理数)めっちゃできる。 つまり、変な服装とか「わふー」とかの”表象としての白痴”が、表面的な一部/一面としてしか存在できず(一部/一面としては存在できている)、むしろその奥側(内面)をより上手く・より鋭く描くための生け贄となっている。ギャップ萌えとはまた異なり、その関係は無意識と意識のように、ひとつの表象アルゴリズムとなっているが、それ故に見える片一方はルアーのように、獲物が引っかかるのを待っている。つまり、その回収されない態度(服装や口癖が、彼女の生い立ちやトラウマに強く関わってくるというわけではない*4)こそが、表象であるということだ。
またもやだが話を戻そう。その白痴性というのは純粋性とイコールに近い関係で結ばれている。つまり物を知らない、何にも染まっていない、純朴である、うぶである―――そういう態度を最も簡単に示す方法はなにか? 答えは「子供」である。子供なら全てが必ずしもそうとは限らないが、単純に大人よりも子供からの方がそういったものはイメージしやすい……結び付きやすい。子供であるということは、保留つきだが純粋であるということとニアイコールである。
”だから”「泣きゲー」においては有効である、とひとまず言えることはできるだろう。これは鬱ゲーではなく泣きゲーであり、ならば純粋さというのがひとつの有効打になるのは考えるまでもない。――しかしこの解答だけではあまりにもシンプルで、あまりにも淡白で、つまりわざわざ書くまでもないことだから、もうちょっと先に駒を進めてみよう。

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「なぜエロゲの主人公に白痴が多いの?」―――もちろんレジェンド・唯一神としての伊藤誠大先生が白痴主人公ヒエラルキーの頂点に立つのは言うまでもありませんが、しかし普通に言動を追っているだけでも「おかしい」主人公は数多い。もちろんピンキリではあるけれど。たとえばギャルゲにおける随一の泣きゲーである『メモリーズオフ』の主人公は、当時のファミ通クロスレビューですら「こいつ頭おかしい*5」と言われてしまったくらい変人であった。さて、それを、折原浩平や国崎往人らにもある程度(以上)当て嵌めることも可能なのではないだろうか(実際、三上智也と彼らとの差異はそんなに大きくはない)。ヒロインが白痴言われているけれど、現実という基準から考えれば主人公だって――白痴とまではいかなくても――おかしい存在であった。それは泣きゲーだけに限った話ではなく、ちょっとユカイな奴やウィットに富んだ奴から、果ては何故か支離滅裂なセクハラしか口にしない奴(『前後』とかな!)まで様々いるけれど、その彼らの白痴性にも注目するべきではないだろうか。
とはいえここでは「泣きゲー」についてのみ語ろう。泣きゲーの主人公は何か問題を抱えている方が良い。それがトラウマならもっと良い。「主人公におけるトラウマ」、それが一番最初にクローズアップされた作品は何かというと、やはり『ONE』なのではないだろうか。あるいは剣乃/菅野作品にも言えるかもしれないが、トラウマとまで呼んで良いのかは難しいところであり、またある限定条件下ならば『同級生2』などにも言えることではあるが、強く押し出してきたのは『ONE』かもしれない。それを完全に主題にしてしまった(ここではヒロインの問題解決のついでに主人公の問題に触れられるのではなく、主人公のトラウマ解決のついでにヒロインの問題が解決するのだ)のは『メモリーズオフ(初代)』であろう。彼らは、彼ら自身が泣くことにより、僕ら自身を泣かそうとする。ひとつの形式がそこで確立されている。
さて、であるからこその白痴性(「白痴」ではなく「性」がつく。ミシェル・フーコーが「民衆など存在しない。ただ民衆性があるだけ」と述べたように。完全に白痴な存在などいないのだ!)は、ここではその好転をもたらすための雌伏を導く機能として存在する。まずトラウマを忘れる(トラウマの基本原理を思い出せ。自分で覚えていることはトラウマではないのだ(覚えていることの裏側に、常にもう一段階が隠されている))、そう、彼は忘れる能力を持っていなくてはならない。そして後半、そのトラウマに直面した時の暗さに対応するような明るさを有していなければならない。言わば日常パートと個別ルートのギャップを、彼自身も背負っているのだ。そこにおいてのある種の白痴性だ。折原浩平の日常に挑む態度を、永遠憑きによって脅迫的だとthen-dさんは評して(http://twitter.com/then_d/status/12831694645)いましたが、斯様に「脅迫的に空転/回転」するくらいには白痴性を持っていなくてはならない。―――つまり? つまり、「非-完璧性・完全性」という話である。

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実は欲望というのは逆である。プレイヤーの所有欲を満たすために白痴の弱い女の子を配したのではない――それは欲望というものをまるで分かっていない。我われは常に「自分の欲望すら知らない」のだ。
順番でいえば、プレイヤーの所有欲や保護欲を満たすためにキャラクタが白痴なのではなく、キャラクタが白痴だからプレイヤーに所有欲や保護欲が生じるのです。たとえばFPSなんかは、物語の先を見たいだけでも選択の余地無しに銃をぶっ放さなくちゃいけなくて、――だから順番を間違えるものは、「FPSのプレイヤーは銃を撃つ欲望を持っている」と転倒してしまう。FPSをプレイしてしまったら、銃を撃ちたくなくても、撃たなくてはいけないだけなのに。 グランドセフトオートをやれば、犯罪行為をしたいという欲望を持っていなくても、まるでそのように見られる/評される。本当は、単純に、犯罪行為をしないと先に進めないから犯罪行為をする、というだけなのに、そのように評される。つまり、行なったことがその人の欲望なのだと。「美少女ゲームのプレイヤーは美少女と恋愛したがっている」という使い古された言葉も同様である。別に美少女と恋愛したくなくても美少女ゲームやったら美少女と恋愛せざるを得ないのだ。人はテレビゲームだからってしたいことだけ出来るわけではない。自分ではどうでもいいと思ってることだって、時にはやらされる/やらざるを得なくなるのだ。
しかし同時に、それは欲望の仕方を教えてくれるシステムでもある。人は自分の欲望の仕方を自明では知らない。ラカンの「欲望は他者の欲望である」という有名な言葉は、人は、自分が(なにを)どうやって欲望したらいいのかすら、他人に教えてもらっている、ということでもあるのです。欲望そのものはあっても、それを実現させる方法=現実化させる方法は自明ではない。そこを定めていく(くれる)のが、ここでいう「他者」である。ゲームでいえばそのシステム・配置である。スカッとしたいと思ってFPSをプレイし出せば、「銃を撃て」とゲームは要求してきて、そして銃を撃ったらスカッとした――ここにある欲望は「スカッとしたい」だが、ゲームシステムによりその実現方法として「銃を撃つ」が提示され、その瞬間に欲望は「スカッとしたいから銃を撃つ」に変化したのである。
つまりそれと同じ様なことで、所有欲やら保護欲やらは自明のものではない。人は様々に既に分節化された欲望を持っているわけではない。我われの主体化・社会化・幻想化がそれを導き出すだけなのである。

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ということで、長くなったが、結論。
泣きゲーのヒロイン、つうかKeyには白痴っぽい(白痴性を持つ)ヒロインはいるかもね、それがエロゲ全般に広げられると思ってるのならとりあえずエロゲ100本プレイして出直してこい。
・主人公においても白痴性ってあるんじゃね。
・そしてそれらの白痴性には、「泣きゲー」において過度に強く配されているように、泣きゲーとのある種の相性の良さがあるのかもしれない。
・あと欲望というのは単純ではなく何重にも屈折する。てゆうか自明性のあるものではない。
以上。
あと最も言いたいことは――ああ、またこの話題かとうんざりするのだけれど――エロゲの話をするのにエロゲやってなくても構わないけど、でも、ホントにやってないんなら、そこを弁えて語っていただきたいですね、ってこと。別にエロゲに限った話ではない、なんだってそうでしょう。ボール蹴ったことない人がサッカー語っても勿論構わないけど、まさか、それなのに「俺の方が上手い」なんて口調で語ってはいけないでしょう――だってその瞬間に君の言は、君が優越感を得たいから語っているだけの不誠実なものに見えてしまうから、そのくらい「不誠実」だから――、というのと同じレベルの話。

*1:もちろん「俺つば」とか「星メモ」とかも泣くことが出来る作品でもあるけれど、しかしそれ以外の要素もてんこ盛りであり、つまり「泣きゲー」という評価は誰も下していない。

*2:PS版エクソダスギルティーにおいて

*3:もちろん彼の作品は「泣き」だけではなく、だからこそ「泣きゲー」と呼ぶのははばかれるものであり、実際に誰も”そんな風には呼んでいなかった”(そもそも泣きゲーという名称が発明されていなかったのだ)。つまりこれは事後的な仮構である。

*4:服装は多少関わってはいるけど。

*5:正確な文面は忘れてしまったが、内容はこんなこと。