エロゲにおける立ち絵と顔と身体

主にノベル系ゲームにおける「立ち絵」の話。ノベルタイプ以外(ならび3Dポリゴンとか)は話が別でしょう。去年発売された3作品(しろくまベルスターズ、シャッテン、装甲悪鬼村正)&クドわふを例として挙げてみます。とりあえず見ていただくのが早そうなので、『しろくまベルスターズ』の話。

顔貌性象徴機械としての立ち絵

この作品の面白いところは、立ち絵が2種類+顔パターンしかないというところです(サブキャラにおいては1種類+パターン)。どういうことかというと、



基本体勢はこの2種類しかない。ななみでいえば「斜め向いて手を広げてる」のと、「正面向いて手は胸の前」という2種類しかない(てゆうか他のメインキャラも、斜め向きと正面向きの2種類しかない)。ただし表情のパターンは10種類以上あって*1、それによって『しろくま』の立ち絵は運用されているわけです。
身体は2パターンしかなくて、顔は10パターン以上あるということ。この形式が、他のエロゲに表現面で劣っているかというと全然そんなことはありません。実際に立ち絵がショボイみたいな意見はググッても一切見つからない。ついでに立ち絵が基本2種類しかないことを指摘している見解もほとんど見つからない。つまり、そうと気づかせないくらい、上手く運用されている。というか、表情さえ揃っていれば、上手くいかない理由がないと言えるかもしれません。


エロゲの立ち絵に運動は描かれておらず、それは(制限されたパターン数からも)状態の描写ではなくて文脈から切断されたポーズであり、そしてだからこそ、もはや身体までも「顔」に近い役割を負っているのではないだろうか。立ち絵というのはひとつの記号であり、それは「その時の」彼女を表していると同時に、「彼女自身」も表している。


立ち絵の身体には「運動」というものがありません。運動そのものは表現できていないと言える。たとえば、吹っ飛ばされたら横にびゅーんと立ち絵が飛んでいくとか、画面中を立ち絵が高速で行き交うことにより、部屋中を駆けまわっていることを表す、なんてように、立ち絵が移動するゲームというのは今や当たり前にあります。しかしそれは配置の移動でしかなく(『ましろ色』のように立ち絵が向かい合う演出を用意した作品もその点においては同様でしょう)、変化する、流動するという運動そのものではない*2。そうである以上、エロゲにおける身体の表象は、「映画のような演出」とメーカー自身が謳っていた『ef』ですらまったく映画的ではなかったように、映画やアニメなどの映像メディアとは大きく異なります。たとえば映画についてドゥルーズが登場人物の身体運動を分割不可能な一連のイメージとしてみたように、あるいはアニメについてエイゼンシュテインが一瞬後には何にでもなれる登場人物のその自由な身体性をこそ評価したように、「運動そのもの」がギリギリ区切られる一つの単位であり、その中のどこかの瞬間を切り出しても、それはまったく本質でもなく実質でもなく妥当ですらない、元となったものとは別物に成り果てるわけです。しかしエロゲの絵というのは動かない*3「一瞬の切り取り」ですから、そこに運動は存在できるわけがなく、別の記号がある。
つまり、エロゲの立ち絵というのは、運動性が剥奪された、もはや身体ではない別の記号であるということです。「身体マイナス運動性の身体」がそこにある。たとえばアニメや映画の映像から、どこか一場面をキャプチャーした絵が、決して運動(変化や流動)を表現できていない(むしろ貶めていると言えるくらい)が故に、元となった運動とはまったく別の記号を生み出してしまうように。ましてやエロゲは「元から動かない」のだから、偶然歪めて出来上がるそれらとは意味が大きく異なる。


ですので、そこにあるのはひとつの記号=ポーズなのですが、しかし圧倒的に種類が少ない(立ち絵の種類は限られている)が故に、立ち絵の身体が文脈を無視してキャラクターを表現するかのよう=キャラクターの表現が立ち絵の身体に文脈を無視して現れるかのようでもあるのではないかと考えられるのです。

たとえば先ほどの『しろくまベルスターズ』でいえば、

斜め向きと正面向きの2種類というのは3人とも共通だけど、それぞれに差異がある。斜めの立ち絵を比べてみると、もっとも人見知りしないで明るく開放的なななみ(ピンク頭)は「両手を広げたデザイン」と、絵においても開放的であって、えばりんぼうで自信家なりりか(金髪)は「手を腰に据えて胸を張るようなデザイン」と、絵もその性格を強調していて、内気で臆病でもある硯は「自らを庇うように胸の前に手をもってくるデザイン」と、これまた絵の方もその性格と統一的である。それは正面向き立ち絵にあっても同様です。

かつて『CLANNAD』の渚の立ち絵が、斜めでうつむいているものがよく使用されていたことに対し、それが渚の内面を象徴しているという言説が*4ありましたが(逆に渚が強くなったアフターに入ってからは正面向き立ち絵の方が多く使われるようになったり)、そのように、立ち絵というのは(立ち絵の身体というのは)、その瞬間の状態――喜んでるとか悲しんでるとか――のみを表すのではなく、そのキャラクター自身を表すものでもある。
それは最新の作品でも言えるでしょう。『クドわふたー』では、有月姉はほとんど常に斜め向きの立ち絵で、有月妹の方はほとんど常に正面向きの立ち絵でした。それについて、姉が持つ諦観と挫折と斜に構えたような姿勢を象徴していると言えるでしょうし、前向きにがんばっている妹の姿勢を象徴しているとも言えるでしょう。つまり姉妹におけるこの立ち絵の対比は、そのまま姉妹における内面の対比でもある。

正面を前向き、斜めを斜め向きというのは単純にすぎるかもしれないけれど、たとえばクドの立ち絵だって、基本は正面で、斜めのものは悲しんでたり落ち込んでたりという感情を表意するものがほとんどでした。この辺はゲームによっても変わってくるでしょうから一概なことは言えませんが、現実においても会話する相手が、真っ正面から自分の目をしっかりと見て来る場合と、うつむきながら斜め下を見ている場合とは、まったく異なる印象を抱くように、立ち絵においてもそれはある程度同じなのではないでしょうか。そしてそういったものの積み重ねが、キャラクターそのものを定義するように見える/立ち絵がキャラクターそのものに定義されているように見える。さらに細かいところを突けば、たとえば『星空のメモリア』の明日歩が右耳をこちらに向けている立ち絵の使われ方と左耳をこちらに向けている立ち絵の使われ方が(というか、その立ち絵の性質自体が)まったく異なるように。文脈に決して依存しない(パターン数の関係上「依存しきれない」)立ち絵は、その身体は、それだけでひとつの表意――象徴的な「顔」になるのではないだろうか。


フェイスウインドウと顔

「そもそもボクたちは立ち絵をそんなに見るのかな問題」というものがあります。テキストと立ち絵を同時に見るというは難しくて、そもそも立ち絵のパターンなんて限られてるのだから、毎回凝視しなくても記憶を参照すればいいだけで(つまりチラっと確認すればそれで十全なわけでして)、さらにテキストボックス横のフェイスウインドウなんてものがあれば、それだけで事足りるのではないか――
『Trample on "Shatten!!"』というゲームはその辺強烈でした。

こう見ると分かるように、立ち絵の表情とフェイスウインドウの表情がまったく異なっています。このシーンだけじゃなくて、ずっと(そしてどんなキャラでも)こんな感じです。てゆうか、このゲームにおいてはメインヒロインですら立ち絵の表情は1・2種類しかありません。キザイアさんにおいては、不敵な笑みと、頬を染めてる不敵な笑みの2種類くらいしかない。そして立ち絵の種類=ポーズも(服装差分除けば)2種類くらいしかない。けれどその代わり、フェイスウインドウの表情の種類はかなり沢山用意されています。立ち絵においては、悲しい場面だろうが嬉しい場面だろうが憂鬱な場面だろうが、表情はまったく変わらないんだけど(いつも不敵な笑み!)、フェイスウインドウにおいてだけは、泣くし笑うし物憂げな顔を浮かべる。
それに対して何か問題があるかというと、ほとんどなかったりします*5。てゆうかそもそも、こんな極端なことを行なっているにも関わらず、人によってはこの立ち絵の使い方になかなか気づかなかったりする。少なくともボクは数時間プレイするまで気づきもしませんでした。つまりそれだけ立ち絵を見ていなかったし、しかも見ていなくても何の問題もなくゲームを進められたということです。これはテキストに十分な情報があり、さらにフェイスウインドウという指標まであるならば、それだけで事足りるということでもありました*6。それはつまり、極端な話、顔さえあれば十分ということでもあるのではないでしょうか。少なくともその瞬間を表すという意味においては。


「顔」の強調というと、同じく09年発売の『装甲悪鬼村正』も特徴的だったでしょう。この作品もまた、立ち絵には存在しない顔がフェイスウインドウにのみ多く用いられていました。そのような理由からか、そもそも立ち絵自体が用いられてない場面も多かったです(シャッテンと異なり、村正は立ち絵とフェイスウインドウで齟齬を発生させないようにしている)。これについては、立ち絵では描けない表象をフェイスウインドウで実現させている、と言うことも出来るでしょう。あたかもコミカルに絶叫する香奈枝とか、ヤクザばりにキレるさよとか、驚異的な”あの”笑みを浮かべる景明くんとかの「顔」を、立ち絵として――身体が付いているものとして描くと、最早僕たちは耐えられないのではないでしょうか。コミカルすぎてとか、リアルすぎてとか、怖すぎてとかで。フェイスウインドウという、立ち絵に比べれば半歩だけ物語世界外における表象だからこそ、それに耐えることができるのではないだろうか。つまりフェイスウインドウの顔というのは極論であり表現であり、実際の彼らの顔は「分からない(こうでないかもしれない)」のだと。その辺が『村正』自体に大きく関わってくることは、ネタバレになるので詳細は避けますが、ラストの景明くんの「顔」そしてそれが「描かれなかったこと(我われには見ることが叶わなかったこと)」からも明らかでしょう。

文脈に捉われながらも同時に依存しきれない顔(顔と身体)は、キャラクターに依存しながらも同時に文脈に捉われている。だからこそ例に挙げたような(特に村正のような)使われ方が可能なのかもしれません。

*1:あと手とかの一部分だけの微妙な変化もここに加えられています。

*2:『真剣で私に恋しなさい』では、立ち絵をその場でくるくると回転させて回ってる様子を表すとか振り返る様子を表すという、とんでもない方法(というかある意味実直な方法)を使って「立ち絵の運動」を字義通りに表していましたが、それは逆に「登場人物などペラッペラの紙(CG)だ」ということを自ら証明するに過ぎない行為でもありました。立ち絵そのものの運動としてはもの凄く実直であったのだけれど(エロゲの立ち絵に運動させればペープサートになるのだ)、これではキャラがペラペラな紙に還元されてしまう面もあるでしょう(=キャラなど実はペラペラな紙に過ぎないというみんな知ってるけど敢えて黙っている事実が明るみになってしまう)。

*3:もちろん3Dポリゴン系とかは話が別ですが。

*4:出典を記しておきたいのだけど何処で見たか忘れてしまった――。

*5:ちょっとはありました。

*6:そもそも立ち絵が文脈に依存できない以上、文章には影響ないのだ。ライトノベルを読みながら表紙や巻頭に載っているキャラ絵を参照することなど、キャラ登場最初の一度や二度はしても、それ以上はまず誰もしないように、一度や二度見れば十分理解できる。