『処女はお姉さまに恋してる 2人のエルダー』について

オーバードーズ・コミュニケーション! 過剰と紙一重の構築論理は、その実、セカイがそれに支えられているということも示している。そこからの脱却は力技的ではあったかもしれないけど、しかし蛮勇の危うさを脇に退けられるだけの強さも示せていたのではないか? みたいな感じの話です。しょーじきな話、前半部と後半部(個別シナリオ)でちょっとズレている感があるのだけど(ちなみに前半は「神ゲー」と言わざるを得ない出来栄え)、しかしそれらは統合可能なのではないかな、という話でもある。
以下ネタバレです。

処女はお姉さまに恋してる 2人のエルダー 初回限定版処女はお姉さまに恋してる 2人のエルダー 初回限定版
(2010/06/30)
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「高度に発達したコミュニケーションは針のむしろと区別がつかない」

ごきげんよう」……上品な振る舞いと優雅な言葉遣い、絶えない微笑とおしとやかな空気、それらが生み出す「お嬢様学校」という空間。そこに、もともと女性のような容姿でもあった千早が、男でありながら女装して潜入し、卒業までを過ごしていく。そのお嬢様学校における、ある意味「真の」お嬢様となりながら(擬装しながらなのに)……。

なんてあらすじの裏側には驚異的伏魔殿が潜んでいた。
超高密圧コミュニケーション。

そう、『おとボク2』においてなんといってもまず目立つのは、そのコミュニケーションの作りこみの凄さ・丁寧さです。プレイすればすぐ分かると思いますが、決して感覚や空気やノリではない、濃密な丁寧さで作られている。プレイされれば、キャラクター同士の会話・コミュニケーションを見て、「細かいなぁ、丁寧に作られてるなぁ」と思うことでしょう。
―――だが、だがしかし、外側の僕たちから見れば「丁寧に作られてるなぁ」という感慨を抱くコミュニケーションも、実際にその丁寧さを実現している彼女たちからしてみれば、とても暢気ではいられないものであろう。丁寧であるというのは、描写が丁寧であるというのと同時に、実際にコミュニケーションしている彼女たちがそれだけの――描写の丁寧さに耐えうるだけの――コミュニケーションを行なっているということです。外側から見たらそう見えるに足るだけのモノが内側で繰り広げられてるということの証左なのです。たとえば千早さんや香織理さんなんかは特に状況を読んで相手の思考も読んで次の手とかも考えて言葉を発することが多いです。てゆうかこのふたり同士の会話とかレベル高すぎてついていけませんよね! とにかく思考し、考え、相手のことを思い、先を読み、カマをかけ比喩や隠喩を使いこなし……。端から見れば「お嬢様学校で描かれる丁寧な心の交流」も、当事者にとっては「針のむしろと見分けが付かないほどの高度なコミュニケーション」なのではないだろうか。だってほら、単純に、自分がもし千早さんだったらと置き換えてみて、あのレベルのコミュニケーションが可能かと考えてみれば……無理くね? そう思えるレベルである。
―――もちろん全員がそうなのではなく、千早さんや香織理さんを「そうするほう」の極点だとすると、優雨なんかは「そうしないほう」の極点というように、それぞれ異なっています。誰もが神経張り詰めるほどのコミュニケーションを為しているわけではない。しかしひとつ確実に言えるのは、誰もが自分の出来る精一杯を尽くしてコミュニケーションしているということでしょう。
例えば、竹を割ったような性格の薫子さんだって考えているのであって、
(ひとつだけ例を。” 初音「優雨ちゃんは身体が弱いから、護ってあげないと、お世話してあげないと……それは確かにそうなんです」 初音「でも、それって飽くまでも『常識的な意見』でしかなくて。そこに『優雨ちゃんの気持ち』は一欠片も汲まれては居ないんですよね」 薫子「…………そう、かも知れないね」 あたしはその言葉に肯いた。きっと、それは初音が優雨ちゃんと出会ってから……ずっと、考え続けてきたことの結論なんだって思ったから。 ”  薫子さんは初音さんの意見に頷くのですが、それは薫子さんが「それが正しい」「正論」とか思ったわけではなくて、テキストで示されているように、それが初音さんが”ずっと、考え続けてきたことの結論なんだって思ったから。”なんですね。初音さんの意見を尊重し、初音さんの求めている言葉を贈るという、薫子さんなりに精一杯「考えた」結果のコミュニケーションがここにある)
それは千早や香織理さんほどの論理構築ではなく、かといって優雨ほど直球ではないけれど、薫子さんにとっては精一杯・一生懸命なコミュニケーションである。つまり、彼女なりの精一杯でコミュニケーションしているということです。
それは他のキャラにおいても同じ。思考や論理展開に長けた人もいれば、天然というか天真爛漫気味の人もいるし、他人との会話が上手じゃない子だっている。けれど、彼女たちは、彼女たちが持てる精一杯をもってしてコミュニケーションしている。


一見ただの――というか、オリエンタリズム丸出しでもある――お嬢様学校であるこの世界の内実は、そのような超高密圧なコミュニケーションに充ちている。これは翻すと、そのような超高密圧なコミュニケーションだからこのような世界であると言えるのではないだろうか。適当なコミュニケーションやなあなあなコミュニケーションではこうはならない。ここまでには届かないのだ。ある種真摯ともいえる直向なコミュニケーションがこの世界を構築している――そういったコミュニケーションのお陰で、この世界はこういう世界で”あれている”。思い起こせばモブキャラですら直球な・直向なコミュニケーションだったではなかったでしょうか。千早や騎士の君にキャーキャー騒ぐ姿は、確かに愚かな部分もあるかもしれないけど、彼女たちのその気持ちは真っ直ぐだ。本物の千早や薫子を決して見つめてはいないが、彼女たちが見つめている偶像としての千早・薫子に対しては一点の曇りも他意も裏切りもない。茉清さんと仲良くなった聖さんにいやがらせする子も、それを咎められ謝る姿も、彼女たちなりには真っ直ぐだったのではないだろうか。友達の髪止めを盗んでしまった子も、薫子さんの親からの借金で立ち行かなくなった子も、沙世子さんも、決して正しかったり上手かったり賢しかったりはしないかもしれないけれど、けれど、彼女なりには真っ直ぐで、精一杯で、一生懸命だったではなかったか。そういった―――そういったコミュニケーションに満ちみちていて、そういったコミュニケーションに支えられて、そういったコミュニケーションだからこそ在る場が、この学園なのではないだろうか。

コミュニケーションの構造理論

そのあまりの真摯さは、逆に針のむしろ的な不穏を潜在させてもいる。だいたいそもそも、千早さんは「男」なのです。みなが自分なりの直向さで回しているこの世界において、当然千早さんも千早さんなりの直向さで挑んでいるけれど、それは「彼」のものではない。「彼のもの」になりきらない。そう、女装モノでは最早見慣れた光景。偽りの自分だからこそ、間にたわるもの総てに「偽り」の冠が仮挿入される――彼のものになりきらない。
そんな女装モノで見慣れた光景ですが、だが見慣れたということは、同時に使い古されたということでもある。そして使い古されたものは、いつかは破棄か更新か超克される運命におかれる。結論から言うと、ここでは、そんな心配は周回遅れだった。初代『おとボク』から5年、最早ここには「本物と偽物の対立」という、女装主人公モノで使い古された概念は存在しない。本物も偽物も何も無いのだ―――そう、コミュニケーションの構造理論を思い出そう。   「極論すれば、わたしたちは目の前にいる相手のことなんかどうだっていい」。   もう少し正しく言えば「目の前の相手は見えていない=見ることが不可能」と記した方がいいでしょう。たとえばラカンジジェクなんかでは飽きるほど言われてますが、コミュニケーションとは象徴的な位置により成り立っている/はじまっている。わたしの中でのその人の位置/わたしにおけるその人、というある種の先入観・定義付けがコミュニケーションを定めているといった感じのことです。たとえば僕らはお店の店員に対し「客と店員」という関係をすぐに取れる。その店員がどんな人物でどんな性格なのかをまったく無視したままでも。あるいははじめて会う親戚相手でも、「親戚同士」という関係をすぐに取れる。彼がどんな人物どんな性格なのかを気にも留めずに。はじめて会う友達の友達相手でも、「友達の友達同士」という関係をすぐに取れるし、はじめて会う彼女の元彼のような複雑なシチュエーションにおいても、「今彼と元彼」という関係を瞬時に取れる。そこにおいては彼がどんな人物でどんな性格なのかはまったく無視される(それらに目が向けられるのは、その関係が成り立った次段階においてだろう)。つまり、目の前の彼が何ものかなんかは、まったく気にされていないのだ―――それと同じ様に、友達にしろ恋人にしろクラスメイトにしろ憧れの人にしろ嫌いな奴にしろ、象徴的位置に収まることによりそうであると定義付けられる。そもそも人間関係というのは、無理矢理に定義付けてはじめて「友達」だの「知り合い」だのと定義付けられるものであって、たとえばボクと彼は友達だ、なんてことは自明の理になっていない(自明ではないから「わたしたちは友達なのかどうか」を問う物語が多々あるのだ)。

そういった「切り取られた自分」―――『おとボク2』で言うなら、お姉様としての・エルダーとしての・寮の一員としての・女学生としての「千早」などはそうでしょう。あれが100%の素でないことは明白である(男の子が女の子のフリしてるんだから当たり前だけど)。しかし、あの千早というキャラクターにおいては100%の素である。お姉様としての・エルダーとしての・寮の一員としての・女学生としての「千早」として確立されていて、ほとんどみんなそっちの方だけ見ていて、千早もそっちの方だけ晒していて、それで世界が廻っている。ならば、ここには、その作られた千早と、作られていない本物の千早といった対立は存在しない。そもそもの「本物」からして存在しきれないのは常識ではあるけれど(子供としての千早、男としての千早、引きこもっちゃう千早、史に優しくする千早、母さんに優しくする千早、千歳の代わりとしての千早、エトセトラエトセトラ……人は多種多様な面=キャラクターを持っていて、そのどれか一つを取り上げて「本物」と称することは不可能だろう)、ならばその「キャラクター」が、”本物と同等”だと言えるのではないだろうか。

ここに居るのはお姉様としての・エルダーとしての・寮の一員としての・女学生としての「千早」であり、またお母さんのことを大事に思う・史のことも大事に思う・女装してるけど男であることを忘れず固持しようとする・父に反抗している「千早」でもあり、それらがそのまんま存在している。それらに、どれが本当・どれが嘘というラベルを付けることなく、全てが千早として存在している。つまりキャラクターが実存していると言い換えることもできるであろう。
まあ要するに、普通に考えてみて、僕らが見てきた/知る限りにおいて、寮にいて女の子している千早も、学校でエルダーお姉様している千早も、実家に帰って息子している千早も、全部変わんないじゃん、ということです。それらがまるで別人のように見えるでしょうか、と問えば、答えはノーでしょう。それぞれ微妙に違う、少しずつの差異がある、けれどまったくもって千早じゃん、ということ―――

カーミラ 「たとえこの姿が偽りのものだったとしても、その心は一つ……私は貴女をこんなにも大切に想う。その心は真実よ……だから信じて」

ディスコネクテッド

千早くんは「そもそも失敗してきた」、ということは作中で語られています。ここでの生活を見てるとその理由も理解できる。なにせ驚異的な説教王っぷりですからね、会う人みんなに説教して諭してるじゃねーか、と言いたくなるくらい、何かしらの正論を吐いていく。外から見た感じだけなら「上から目線」と嫌われた(そして自分でも嫌った)かつての姿とあまり変わりがないように見えます。

声「何なのさ、その上から目線は……お前そんなにエライ訳?」
僕はそんなことは考えていなかった……少なくとも最初のうちは。
そう見えていたのは、別にあいつらを見下していたからじゃない。
……ただ無力な自分に絶望して、何に対しても関わる気になれなくて…冷めた態度しか取れなかっただけだ。
父さんの振る舞いを許せないとは思ってはいても、その庇護の外へと飛び出す気概もない自分……そんな自分を下らない言い訳で飾るので精一杯だった。
虚勢や強がり、見栄……身を護るための薄っぺらな仮面。それがやがて目に見える形になって、周囲に対する棘へと姿を変えていったのかもしれない。
冷笑家で皮肉屋な僕自身は、恐らく今もそれ程変わってはいない……ただ、それを許してくれるみんなが優しいから、きっと僕はこの場所に居ることが許されているのだろう。

見えるけど、上手くいってるということは、かつてとは違うのでしょう。実際に千早の説教・諭しがどう受け止められてきたかというと、概ね良好で好意的ではあるのだけど、一方では理論武装だとか理屈屋みたいに言われてもいる。また誰にでもあっさり通用するわけではなく、たとえば沙世子さん相手の問答の時などはかなり手練手管を用いて、強引気味に自己の主張を押し付けていた。
それなのに、なぜここでは上手くいってるのか? ―――かつてとの相違点を探ればいい。まず「場」が挙げられる。これは千早が前記の引用文のように言うとおりでもあり、周りの優しさや男と女の違いにもある。次に立場がある。外見において好意的な印象を与え、さらに年上として、お姉様として、エルダーとして上から教えてもおかしくない立場になれば、そういう行動も受け入れられるであろう。それは薫子さんが当初抱いていた「完璧超人」というイメージもそうで、あんだけ何でも出来るんだから言うことも正しいということである。そして最後には、そのキャラクター、その主体が挙げられる。千早の説教をよく見ると、以外にも思想の傾向がない。というか、だからこそ上手くいってると言えるかもしれません。ここ最大の特徴は、「誰相手のどんな場合でも概ね上手くいってる」という点です。薫子さん相手でも初音さん相手でも優雨ちゃん相手でも誰であろうと、初対面に近い状態であろうと親しかろうと、千早の説教/諭しは概ね上手くいく。相手にとっては感銘と理解を与える。ありとあらゆる相手と場合に対応できている。ということはつまり、ありとあらゆる相手と場合に対応できる方程式を用いてるのではないだろうか。その式とは、相手の求めに応じるということ。自分の主義主張や思想を押し通すのではなく、その時の相手が求める思想や主義主張を与える。実際、千早の矛盾を孕みそうなほどの自由自在な思想を有している説教/諭しは、そうでもなければ説明できないのではないだろうか。しかも、かつては嫌われ疎まれていたそれが、ここでは上手くいってるというのだから、よりそのように思われる。ここにいる千早とかつての千早との最大の差は「ある種の自分のなさ」にある。「我がない」と云った方が近いだろうか。それも当然で、だってこの千早はある意味「別人」になりきっている=演技しているんだから、我が無くなって/変化していないほうがおかしい。そこにおいては、

虚勢や強がり、見栄……身を護るための薄っぺらな仮面。それがやがて目に見える形になって、周囲に対する棘へと姿を変えていったのかもしれない。

のような、かつての失敗は存在しないだろう。虚勢や強がり、見栄などは存在しない……むしろ目立ちたくはないんだから、今の千早に在るのはその真逆。そういうかつての我が無くなったからこそ、ここの千早は上手くやれているのではないだろうか。
そしてその姿勢こそが、相手にとっての魅力にもなっている。

雅楽乃「あの方は、今在るものを……ありのままで受け止めて下さいます。飾りなどに囚われず、本質を見て下さいますから」
初音「……そうだね。優雨ちゃんのことを最初に解ってあげたのも千早ちゃんだったし……雅楽乃の云うこと、解るような気がします」
雅楽乃「はい。あの方には殊更に意地を張ったり、強がってみせる必要がありません……寧ろそれが無意味なのです。そういうところに、私はとても惹かれてしまうのです」
薫子「無意味……」
そういえば、確かに千早はいつもそうだった。
あたしがどんなに強がろうと、嘘を吐こうと……必ずその向こう側のあたし自身を理解しようとしてくれていた気がする。


さてしかし、ここでは上手くいったけれど、次は・別の場合はどうなのか、女の千早なら上手くいくけど男の千早だとどうなのか、といった点は存分には語られていない。いま千早が居るところとそこから形成された(現在の主体としての)千早は、かつての千早とディスコネクテッドなのだから、単純にAはBになったというように千早が成長したなんて述べることはできないのではないだろうか―――たしかに出来ない。各々の主体は全てキャラクターとして同一人物下にあるとはいえ、それを自在に用いたり統合したりしているわけではない以上、ひとえに「成長」などと括ることは出来ないのだけれど、しかし、その問題は解決されている。ここに在るのは半ば強引な飛翔である。

中合わせ

果たしてこの問題は解決したのか・次は上手くやれるのかという不安も、ここでの経験と彼女とのこれからの日々というヴィジョンがあっという間に置き去りにした(よーするに、個別シナリオに入ると(一部シナリオを除いて)その辺ガン無視されるということ)。そこに危うさを感じるといえばそうなのだけど、しかしその勢いこそが、自分という檻から脱出する速度にもなっていたのではないでしょうか。
そもそも全シナリオで「親」「その縛り」がひとつのモチーフと……あるいはシナリオにおいて対応・解決される「問題」となっていたように、『おとボク2』はその縛りから脱却する/しようというお話でもある。
ただし親を殴り飛ばすわけでも論破するわけでも大喧嘩するわけでも家を飛び出すわけでもない(シナリオによってはそういうシーンもあるけど)。核となっているのは、薫子さんシナリオが、あるいは淡雪が、雅楽乃が、香織理が、……史はある種強引な跳び越えであったが……そして千早シナリオがそうだったように、向き合う・あるいは言う勇気ではなかっただろうか。「優雨と親」について示唆されていたことだってそのようなことだったけれど。自分自身を超克する最良の手段が勇気であることは言うに及ばないが、これは自分自身を縛る檻においても当てはまる。親が自分を縛るというのは、自分だけの問題ではないが親だけの問題でもない、親と自分との問題なのだから。
―――そこにあるのは多少強引に見えても最大戦速でもって駆け抜ける強さではないだろうか。そもそも、各シナリオ、「親と向いあったあとはすぐ終わる(その先に問題は起こらず終わる)」ように、そして向かい合ってる中身が「別段深くは・細かくは語られない」ように、――要するにそれらを逆算すると、「向かい合えばそれでいい」という話なのです。そして向かい合うには勇気が必要で、ということはつまり、勇気を持てればそれでいい。

その強引な勢い・飛翔が、蛮勇的に纏めている――それが『おとボク2』なのではないだろうか。

――もちろん、各シナリオがそうだったように、その往く道は「一人ではない」ということが強調されています。主人公が・あるいはヒロインたちが口にするように、千早と彼女たちは確かに「似ている」。環境だったり境遇だったりこれまでの人生だったり性格的なものだったりが、大なり小なり似ている。けれどまったく同じというわけではない。初音さんが『誰にでも似ているようで、誰にも似ていない』と評したように、似すぎているというわけではない。けれど、だからこそ、手を取り合っていけるのではないでしょうか。背中合わせに(の)あなたが知りたいのであって、決して鏡合わせでないのはそこにおける決定的な差を表している。鏡合わせになるほどに似ている二人ではないということ、そして、鏡の対象として用いないということ。似ている相手と自分との差異を、自他認識の道具として用いないということ。あくまで、背中合わせで。そうであるからこそ、エピローグで描かれるような未来が保証されるのではないだろうか――そしてそれが、この危うさを退却させ、当初の(コミュニケーションの)不穏をも、包括している。