『クドわふたー』について 〜way to the myselfHigh/あるいはクドはいかにして歯車から脱したか〜

クドわふたー 初回限定版クドわふたー 初回限定版
(2010/06/25)

以下思う存分「ネタバレ」していますので、まだプレイしていないひと/ネタバレは困るっていう方はご注意下さい。


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   ”ふー・あむ・あい”

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ジャック・ラカン「欲望とは他者の欲望である」―――この言葉は、我われがいかに自分の欲望すら知らないのかということも表しています。外部から請求されるように現実化する欲望のカタチ、というのがこの言葉の突き詰めた所である。しかして―――そこにおいて、能美クドリャフカは、いかようであっただろうか。

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領土化/脱領土化/再領土化。それらの往復運動から紡ぎ出す、というのは恋愛物――特にいちゃラブ系のひとつの形ではあります。何かを与え、何かを与えられ、それぞれを自分のものとしていく、その往復運動。すでにクドと恋仲であるというところからはじまる『クドわふたー』もまた、そういった運動に支えられていました。
そもそものはじまりからして、「理樹を自分の部屋に招き入れる/クドの部屋に自分が入り込む」という領土化/脱領土化と再領土化の運動であった。そこからはじまり、たとえばちょっとした会話から、身体的な触れ合い、あるいはご飯を作ってもらったり、それを食べたりといったようなこと、などなど様々に広がっていく。ここから先、少しの間、それらを細かく追ってみよう。もちろんプレイ済みの方にとっては当たり前すぎる事柄でもあるので、読み飛ばしてくださっても構わない。

「黒髪のひとの波のなかで、リキは私をすぐ見つけてくれるでしょう?」
「多くのひとたちの中からすぐ見つけて貰えるっていうのは『いいこと』ですよね」
「子犬たちの毛並みではありませんが、違うことは別段悪いことじゃないとか思ったりもして」  (7月18日)

「自分の髪の毛」というものの属性が変わる瞬間である。私のものである自分の髪の毛に自分が抱いてる認識が、他者の認識により変化していく。こういったものが、ひとつの脱領土化-再領土化的運動であるのは言うまでもなく、またここからしばらくはこういった話が展開することも言うまでもない。

自分だけの秘密基地。
その言葉はやっぱりわくわくするものがあった。
理樹「クドがここを見せてくれたってことがちょっと嬉しいかも」  (7月19日)

彼女だけのもの・隠れた場所を、お互いに共有していく、そういった領土化運動である。

理樹「…ってクド、どうしてそんな嬉しそうなのかな」
クド「リキのせりふ、私が言ったのとおんなじせりふです」
理樹「そうなの?」
クド「おかあさんにそう言ったんですよ、私」
僕が自分と同じ感想を持ったのが嬉しいのだろう。
僕も嬉しかった。  (7月19日)

他人に自分と「同じ性」を見つける。知る・近づく・獲得していく・お互いの境界がなくなっていく……その様とそれが反転していく様の流動性を指して、「領土」という言葉がある。

クド「どうぞ、リキ」
クド「髪の毛を触りたいという視線を感じました」
理樹「……」
いや、そういうわけではないんだけど。
そう答えようとして、それは間違っていない気もした。  (7月19日)

そう、このようにそれらは、勘違いすらも包括的に「領土化」する。

気がつくと手が伸びてクドの頬をむにっと摘んでいる。  (7月20日

それはもちろん象徴的次元に関わらず現実的次元――つまり身体的接触においてもそうであり、またそれは、正しく「いちゃラブ」である。

クド「その、怖かった、と思ってしまったのは『あんまりわからなかった』からだと思うんです」
理樹「あ、うん」
クド「ですから、その、わかりたい、というか」
クド「やってみたい、と思うんですけど」
クド「その…手とか…その、あの、で触って……」  (7月21日)

さあそして、この話題は際限ないのでここまでにしておこう。初エッチ後のひとコマである。そもそもセックスという行為が領土化/被領土化運動にあたるのは言うまでもないですが、だからこそそこには更なる奥の……”もう一歩”(ないしそれ以上)の領土化運動が生じうる。肉体的に繋がったから獲得できたわけではなく、触って、よく知って、そうやって更に/遂に獲得していくのである。――これの行き着くところが「紋様を描く」であるのは言うまでもないでしょう。見た通り相手の身体を(紋様で)領土化/自分の紋を相手の身体で被領土化(こちらからすれば再領土化)する行為が、そのまま家族の契りを結ぶことに繋がるという設定はもはやまんまと言えるくらい、領土化と繋がりという運動を表現している。

ここではクドと理樹「ふたりの」運動を見てきましたが、もちろんこれだけに収まるという話ではありません。じゃなきゃわざわざ取り上げません(当たり前だ、だってどんなエロゲにもありふれてることなんだから)。ただ、『クドわふ』においては、これは真実でありながらモチーフでもあるのだ。領土化/再領土化/脱領土化……領土を巡るお話がひとつの軸となってきている。

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  ”「今はまだ」「少し地面を離れてすぐ戻ってくる」「とても『私』っぽいですからね」”


「自分」というのは常にあるものに属しており、またあるものを隷属させている。―――換言すると、あるものを獲得しており、またあるものに獲得されている。たとえば国や言葉、生い立ちや半生、親や友人、そういった様々なものが自分を規定し、また自分がそういった様々なものに影響を(少なからず/たとえ極々僅かでも)与えている。そういった領土化運動。最早ここまでくると、ドゥルーズの用語としての「領土化」とは関係なくなってきますが、そこは気にしないでもらいたい。『クドわふたー』をプレイし終えた皆さん、つまりクドわふを領土化された方なら、それでもニュアンスで十分お分かりになるでしょう。
なぜこんな話ばかりをしてるかというと、そもそもクドというのはそういったものに縛られて存在してきた。もううろ覚えで語るのを許していただきたいが(だって覚えてないんだもん!)『リトルバスターズ!』のクドリャフカシナリオはそういうものだったではないだろうか。世界の良き歯車となれ―――その意味は、世界に縛られた自分であれということだ。君の存在にはこれこれこういう理由がある、これこれこういう目的がある、”だから”、それに従え。そのような被領土化だ。
そこから飛びぬけることによりクドはクド自身を獲得していく――自己を領土化していく。そういう話である。
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モチーフの貯蔵は十分だ。たとえば、自分の国という領土を抜け出し、自国語という領土からも脱し、しかも英語というまったく慣れ親しまない言語を領土化しなくてはならない。(自分が考える)「母」における自分/自分における「母」という領土。氷室さんとの関係性にだってそのようなことはある――もちろんお互いにだ。そもそもロケット・空を飛ぶということからしてそうだろう。足元・大地という領土を――自らを縛りつける領土を――越える跳躍なのだ。そして重力という領土も、やがて/いつかは越える。その脱領土化の先にこそ、「未来(あした)の自分」があり、そこにこそ届けようというのではないだろうか。

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さすれば、なぜ有月さん家族が「クドわふたーにおいて語られなければならなかったか」はもう明白でしょう。ここで語られるのはともかく「限界」の話である。

有月「私が欲しかったのは、こんな毎日じゃない!」
有月「みんなが笑いあっていられる、些細な日常なのに…」
有月「どうして、それが手に入らないのよ…!!」
有月「しぃの夢だって、そうよ!」
有月「あの子だって、いつか気づく日が来るの!」
有月「私みたいに、ボロボロになって…後悔するのよ!」  (7月31日)

これしかできない、ここまでしかできない。あるいは、

クド「有月さん…ひどいです」
クド「だって、椎菜さん、こんなに泣いて…」
有月「そうですね、ひどいおねえちゃんですよね」
有月「だけど、それがおねえちゃんとしての努めだから」  (7月31日)

これをしなくてはいけない。
人が大地に縛られて、だから簡単に宇宙にはいけないように、人には自分を縛る限界というものがあって、だから簡単に跳び越えられない。外的要因・内的要因さまざま。家庭の事情もあれば自身が怪我したこともある。あるいは語られなかった、まったく関係なくみえることも実は深く関わっているのかもしれない。それら様々なことが、彼女を縛り上げる。なんだって出来るわけじゃない。そんなことは子供だって知っている。
「でもおねえちゃんはさ」「おっきくなっても、なんでもできるわけじゃないっていってた」「つまんないことしか、いわないんだ」「おねえちゃんも、おかあさんも」「だからね、おかーさんのえほんもつまんない」(7月29日)
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しかし……プレイした人なら全員知っていることですが、その限界は脱領土化される。いや、正しくは限界はある。出来ないことはある。たとえば、ペットボトルロケット大会を優勝することは出来なかったように。何もかもを為せるわけではない。それでも、大会直後に「諦めなければ、次がある/続いていく」と語られたように。一度で限界から飛び立つことはできない。けれど、諦めず続けていけば、その行為そのものが、”その時点での”限界を越える行為となる。―――それは勿論、言うまでもないですが、「やがては未来に届くでしょう」。



みなで手を交わしポンプを押すその姿こそが、領土化/脱領土化/再領土化である。

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   ”「私はもっと飛びたいです」「300km以上の距離を…縮めたいんです」”


way to the mile high. ――わたしが今いるわたしの限界を越える行為。クドの行為とはつまりそれで、つまりクド自身を越えること。だから彼女は歯車という楔から解き放たれることとなった/ことが出来た。
ただそれは一人の力ではないですね。さんざん書いてきたように「領土化」。自分以外の人たちが自分自身に力をくれる。

クド「私を友だちと呼んでくれる、みなさんが…」
クド「私を好きといってくれる、リキがいます」
クド「まだ…弱いままですけど」
クド「でも、いまなら…逃げずにいられるかもしれません」  (After:8月2日)

幾度も語られたように、そもそも「ロケットはチームプレイ」なのです。少なくともクドわふたーにおいてはそうで、つまり何よりクドにおいてはそう。友達の力も恋人の力も、あるいは偶然に近いロケット部という隣人たちも、彼女の力と/強さとなる・なりえる。たった一人の力で重力圏から離脱する速度と強さを身につけなければいけない、なんてワケではない。周りの人たちの存在に助けられ、そこまで歩いていけばいい。何もかもを乗り越えるような神様みたいな強さは手に入らないけれど、誰かがくじけそうなときに諦めるなと手を差し伸べられる強さは――ひるがえれば、自分がくじけそうなときにそうしてもらえることは――誰でも持てる筈である。
母と自分との間には”さまざまな”距離がある。精神的に距離がある。クドはある種の負い目や引け目を感じていて、だから「好きだ」ってことすらちゃんと伝えられていない。それは母の方だって似たようなものかもしれない。とはいえ、ならばとっとと伝えに行けばいい――そう言えないのが、もうひとつの距離、すなわち物理的な距離。大地のクドと宇宙の母。その間には越えることの出来ないほどの距離が挟まれている。
――けれど、それでも――
そう云うのが、このお話でありました。way to. ロケットでも通信でも、気球=希求でも、ほとんど藁を掴むような行動でも、祈りとなんら変わらない行動でも、しかし求める、縮めようとする。そして、だから、そういう行動が、未来へと続いていく。やっても無駄かもしれないそれをやったことが、未来に繋がっていたのです。
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さて最初の問いに戻りましょう。「クドリャフカと名付けられた女の子は果たしてどうしたか?」
実はかんたん。そう思い返せば、『リトルバスターズ!』の一番最初(OPムービー)からして彼女はこんなことを言っていた。『ふー・あむ・あい』と。自分は誰なのか。自分は何なのか。その議題はある種全人類共通のものでもあるのだけれど――名前で強化されているがゆえに、彼女には強く圧し掛かる。それを見つけるのが、クドのお話でもあった。
クドはクドである。能美クドリャフカ能美クドリャフカである。だから――自分にまとわりつくものも、自分に降りかかるものも、自分のものとして得て(領土化して)生きていく。

そうであるように生まれた、と言う。
名のように、なってしまう。
でもそれは押し付けられたわけじゃなくて…
本人が選んだのだ。
クドがクドであるように。
――椎菜ちゃんは、椎『菜』ちゃんに、なった。  (8月1日)

椎菜ちゃんのそれと同じである。
最後のシーンで、宇宙に居るクドが『私は誰なのか?』と自問し、『アイアム・ナウ・ヒア』と答えたように。彼女はクドで、ここにいる彼女がクドで、そうであるからこそ、クドのことをクドが――自分のことを自分が――引き受けていくのである。
早い話が、語呂合わせ的でもあるが、実際そうだったのではないだろうか。能美クドリャフカとは、つまり、know me クドリャフカという意味でもあったのではないか、と―――

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”『ぼくは、この箱の中でうまれたんだ』『そして、この箱の中でしぬんだ』『いつでも出て行けるけど、でもそのつもりはない』『出たら、半分のかくりつで死ぬからね』『だったら、外なんて見なくていいじゃないか。ちがうかい?』”


もっとも周縁的なのにもっとも重要であり尚且つもっとも奥ゆかしく語られること。
現代のエロゲにおいて「主人公」は――「主人公の問題」は欠かせないものとなっている。現代エロゲで主人公を無視する作品はそれだけで大きな瑕疵である。最近の良作を思い出してみればいい。大半が、主人公を無視していない/主人公を語っている。
ましてやこれは『リトルバスターズ!』と異にして同にするもの。恭介も謙吾も真人も鈴もいないここは、確かに『リトバス』から脱領土化されているけど、しかし理樹は確固として存在しているのです。しかも――しかも、彼らがおらず、その上あの世界(仮想世界)でもない、この現実のここで。理樹くんは、いかにして、どうやって、自分の問題/トラウマを乗り越えていくのか? そこに本作はどういう答えを出したのか? テキストで十全に示されているので、ここでは簡単に引用を並べておきたい。

理樹「それから、これは傲慢なのかもしれないけど」
理樹「言葉だけの意味じゃなくて…クドが何か壁にぶつかったときに支えになれるようになりたいよ」
理樹「クドの心の中で、礎になれたらいいなって思う」  (7月20日

…不意に理解した。
きっと誰かから求められるってことは、こういうことなんだろう、って。
痛みの中で、それでも呼びかけられること。
欠落がある僕の心の隙間には確かにクドがいて、クドはそんな僕を必要としているってこと。  (7月20日

理樹「勘違いかもしれないけど。最後にクドに入ったとき、何かのすきまが埋まった気がしたんだ」
理樹「ずっと空いてたものが満たされた気がしたんだ」
理樹「だから、ありがとう」
その手を捕まえてお礼の言葉を口にする。
苦痛にあえぐ女の子が、痛みを与えている僕から逃げず、受け止めてくれたこと。
もしも僕が孤独という重みで押しつぶされそうになっているのなら。
クドは確かに僕の重みを少しだけ背負ってくれたのだ、と思う。  (7月20日

クドはクドで色々思うところがあるのだ。
そんな当たり前のこと。
だからこそ『小さな目的』をひとつ、設定した。
『クドの力になれる僕』になること。
僕はクドの手を取ることを選択した。
だったらクドは困っているときに手を引く強さがある僕でいたい。
そう思ったのだった。  (7月22日)

未来のことを考えると、からだのどこかが痛む気がする。
理樹(…きっと僕は、まだ『今に留まっていたい』と考えているんだろうな…)
だから決められない。
進むことを決めた途端、その決まったことがあっという間に消えてしまいそうな恐怖。
どこからか忍び寄る逆らいがたい眠気。  (7月22日)

「失ったものは取り戻せない」「生きていく限り、失い続ける…」「僕は俯いてぼんやりとそんなことを思った」(7月22日)
そもそも理樹くんの問題/トラウマとは何か?と言えば、つまりそういうことでした。「生きることは失うことだ」。それが発端であり、それが全てのはじまりである(リトバス本文より「僕は知りたくなかったんだ。生きることが、失うことだったなんて。そこで、歩みを、止めた。」)。だからこそリトバスでは心的現実において”そこを覆すことによって”ナルコレプシーから脱することができた。しかしそれがない本作ではどうするのだろうか。答えは下記に続いていく。

やってみなくちゃわからない。
やる前から諦めていたら何も進まない。
失うことばかり恐れていたら、何も得ることはできない。
理樹「……」
僕は、自分の胸を押さえた。
自分自身の思考がえぐるように突き刺さる。
ふらりとからだがよろける。
どこからかくる眠気。
クド『いつかは辿り着けると…そう信じています』
眠気を振り払うのは好きなひとの言葉。
何かを信じること。
理樹(つまりそれは諦めないってことだ…)
眠いという欲求は、潮が引くように消えていく。  (7月29日)

苦しいことがあって、打ちひしがれるようなことがあったとき――。
――誰かを救う強さこそが欲しかった。
弱くてよかった。
普段は弱いままでよかった。(中略)
けれど…。
僕は、僕の大切なひとたちが何かを失いそうになったときに、支えられる人間でいたかった。
あきらめちゃだめだ、と。  (Star Duster)

諦めないってことを刻まれることによって、眠いという欲求が潮のように引いていった(上述7月29日)ということは、諦めないことがそこから脱する方法である。さらに一歩進めれば、それが理樹くんの求めていたことでもあったのではないだろうか。失うから歩みを止めたままでは”さらに失う”。だからこそ「諦めない」という強さこそが求められている。否、それだけが手に入れられるのではないだろうか。待て、しかして希望せよ――それを為しえるには、為しえるだけの、諦めないという、強さが必要なのだ。

何もかも失ってもなお立ち上がる強さなんて僕たちには一生手に入らない。
失うたびに僕たちはくじけそうになって、弱音を吐いてしまうだろう。
理樹「…でもさ」
理樹「誰かがくじけそうになったときに、まだ諦めるな、って手を伸ばすことのできる勇気」
理樹「それぐらいは持っていたい…」
理樹「あきらめちゃだめだ」
理樹「僕はあきらめちゃったんだ。今でも『ゆめ』にみる」
理樹「弱かった自分をみているんだ」
理樹「ひとりになってしまう怖さに負けた自分を」
理樹「僕に力があったら、あの時、名前を呼べたはずなのに」
理樹「あの時、すこしだけでも強くなれたら、いつも呼んでいたはずの名前を呼べたはずなのに…」
理樹「ずっと後悔している」
理樹「大切なひとの名前を、ただ呼び続けることができなかったことを悔いているんだ」  (Star Duster)

つまり行き着く先はここで、つまりこれが答えです。テキストから分かるように、これはひとつの代償行為のようになっている。もちろん理樹くんの行動が代償行為になっているのではなく、クドの行動が代償行為のようになっている。つまりかつての自分を励まし応援し、そして一緒に「かつての自分」を乗り越えるという、今の理樹くんからの飛躍である。ロケットが地面から飛び立つような。今の領土から脱して、別の領土に赴くような。そういった、飛躍。それがここにあり、それで理樹くんは「新たに」歩き出せる。
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「ロケットが飛ぶために利用しているのは『作用反作用の法則』です」と言われていたように、押される力はやがて押す力に変化する。圧力を加えられた分だけ後で伸びて、雌伏の分だけ雄飛があり、助走の分だけ飛距離は長くなり、苦しんだ分だけあとでそれに反発する力が得られる。
そういったものを得られるだけの「強さ」――諦めない、そして自分を引き受ける強さ、それは未来へと届いていく。そういったものを、自分で/彼女で/みんなで得ていく、それこそが『クドわふたー』でもあった、のではないでしょうか。