『処女はお姉さまに恋してる 2人のエルダー』について

オーバードーズ・コミュニケーション! 過剰と紙一重の構築論理は、その実、セカイがそれに支えられているということも示している。そこからの脱却は力技的ではあったかもしれないけど、しかし蛮勇の危うさを脇に退けられるだけの強さも示せていたのではないか? みたいな感じの話です。しょーじきな話、前半部と後半部(個別シナリオ)でちょっとズレている感があるのだけど(ちなみに前半は「神ゲー」と言わざるを得ない出来栄え)、しかしそれらは統合可能なのではないかな、という話でもある。
以下ネタバレです。

処女はお姉さまに恋してる 2人のエルダー 初回限定版処女はお姉さまに恋してる 2人のエルダー 初回限定版
(2010/06/30)
Windows

「高度に発達したコミュニケーションは針のむしろと区別がつかない」

ごきげんよう」……上品な振る舞いと優雅な言葉遣い、絶えない微笑とおしとやかな空気、それらが生み出す「お嬢様学校」という空間。そこに、もともと女性のような容姿でもあった千早が、男でありながら女装して潜入し、卒業までを過ごしていく。そのお嬢様学校における、ある意味「真の」お嬢様となりながら(擬装しながらなのに)……。

なんてあらすじの裏側には驚異的伏魔殿が潜んでいた。
超高密圧コミュニケーション。

そう、『おとボク2』においてなんといってもまず目立つのは、そのコミュニケーションの作りこみの凄さ・丁寧さです。プレイすればすぐ分かると思いますが、決して感覚や空気やノリではない、濃密な丁寧さで作られている。プレイされれば、キャラクター同士の会話・コミュニケーションを見て、「細かいなぁ、丁寧に作られてるなぁ」と思うことでしょう。
―――だが、だがしかし、外側の僕たちから見れば「丁寧に作られてるなぁ」という感慨を抱くコミュニケーションも、実際にその丁寧さを実現している彼女たちからしてみれば、とても暢気ではいられないものであろう。丁寧であるというのは、描写が丁寧であるというのと同時に、実際にコミュニケーションしている彼女たちがそれだけの――描写の丁寧さに耐えうるだけの――コミュニケーションを行なっているということです。外側から見たらそう見えるに足るだけのモノが内側で繰り広げられてるということの証左なのです。たとえば千早さんや香織理さんなんかは特に状況を読んで相手の思考も読んで次の手とかも考えて言葉を発することが多いです。てゆうかこのふたり同士の会話とかレベル高すぎてついていけませんよね! とにかく思考し、考え、相手のことを思い、先を読み、カマをかけ比喩や隠喩を使いこなし……。端から見れば「お嬢様学校で描かれる丁寧な心の交流」も、当事者にとっては「針のむしろと見分けが付かないほどの高度なコミュニケーション」なのではないだろうか。だってほら、単純に、自分がもし千早さんだったらと置き換えてみて、あのレベルのコミュニケーションが可能かと考えてみれば……無理くね? そう思えるレベルである。
―――もちろん全員がそうなのではなく、千早さんや香織理さんを「そうするほう」の極点だとすると、優雨なんかは「そうしないほう」の極点というように、それぞれ異なっています。誰もが神経張り詰めるほどのコミュニケーションを為しているわけではない。しかしひとつ確実に言えるのは、誰もが自分の出来る精一杯を尽くしてコミュニケーションしているということでしょう。
例えば、竹を割ったような性格の薫子さんだって考えているのであって、
(ひとつだけ例を。” 初音「優雨ちゃんは身体が弱いから、護ってあげないと、お世話してあげないと……それは確かにそうなんです」 初音「でも、それって飽くまでも『常識的な意見』でしかなくて。そこに『優雨ちゃんの気持ち』は一欠片も汲まれては居ないんですよね」 薫子「…………そう、かも知れないね」 あたしはその言葉に肯いた。きっと、それは初音が優雨ちゃんと出会ってから……ずっと、考え続けてきたことの結論なんだって思ったから。 ”  薫子さんは初音さんの意見に頷くのですが、それは薫子さんが「それが正しい」「正論」とか思ったわけではなくて、テキストで示されているように、それが初音さんが”ずっと、考え続けてきたことの結論なんだって思ったから。”なんですね。初音さんの意見を尊重し、初音さんの求めている言葉を贈るという、薫子さんなりに精一杯「考えた」結果のコミュニケーションがここにある)
それは千早や香織理さんほどの論理構築ではなく、かといって優雨ほど直球ではないけれど、薫子さんにとっては精一杯・一生懸命なコミュニケーションである。つまり、彼女なりの精一杯でコミュニケーションしているということです。
それは他のキャラにおいても同じ。思考や論理展開に長けた人もいれば、天然というか天真爛漫気味の人もいるし、他人との会話が上手じゃない子だっている。けれど、彼女たちは、彼女たちが持てる精一杯をもってしてコミュニケーションしている。


一見ただの――というか、オリエンタリズム丸出しでもある――お嬢様学校であるこの世界の内実は、そのような超高密圧なコミュニケーションに充ちている。これは翻すと、そのような超高密圧なコミュニケーションだからこのような世界であると言えるのではないだろうか。適当なコミュニケーションやなあなあなコミュニケーションではこうはならない。ここまでには届かないのだ。ある種真摯ともいえる直向なコミュニケーションがこの世界を構築している――そういったコミュニケーションのお陰で、この世界はこういう世界で”あれている”。思い起こせばモブキャラですら直球な・直向なコミュニケーションだったではなかったでしょうか。千早や騎士の君にキャーキャー騒ぐ姿は、確かに愚かな部分もあるかもしれないけど、彼女たちのその気持ちは真っ直ぐだ。本物の千早や薫子を決して見つめてはいないが、彼女たちが見つめている偶像としての千早・薫子に対しては一点の曇りも他意も裏切りもない。茉清さんと仲良くなった聖さんにいやがらせする子も、それを咎められ謝る姿も、彼女たちなりには真っ直ぐだったのではないだろうか。友達の髪止めを盗んでしまった子も、薫子さんの親からの借金で立ち行かなくなった子も、沙世子さんも、決して正しかったり上手かったり賢しかったりはしないかもしれないけれど、けれど、彼女なりには真っ直ぐで、精一杯で、一生懸命だったではなかったか。そういった―――そういったコミュニケーションに満ちみちていて、そういったコミュニケーションに支えられて、そういったコミュニケーションだからこそ在る場が、この学園なのではないだろうか。

コミュニケーションの構造理論

そのあまりの真摯さは、逆に針のむしろ的な不穏を潜在させてもいる。だいたいそもそも、千早さんは「男」なのです。みなが自分なりの直向さで回しているこの世界において、当然千早さんも千早さんなりの直向さで挑んでいるけれど、それは「彼」のものではない。「彼のもの」になりきらない。そう、女装モノでは最早見慣れた光景。偽りの自分だからこそ、間にたわるもの総てに「偽り」の冠が仮挿入される――彼のものになりきらない。
そんな女装モノで見慣れた光景ですが、だが見慣れたということは、同時に使い古されたということでもある。そして使い古されたものは、いつかは破棄か更新か超克される運命におかれる。結論から言うと、ここでは、そんな心配は周回遅れだった。初代『おとボク』から5年、最早ここには「本物と偽物の対立」という、女装主人公モノで使い古された概念は存在しない。本物も偽物も何も無いのだ―――そう、コミュニケーションの構造理論を思い出そう。   「極論すれば、わたしたちは目の前にいる相手のことなんかどうだっていい」。   もう少し正しく言えば「目の前の相手は見えていない=見ることが不可能」と記した方がいいでしょう。たとえばラカンジジェクなんかでは飽きるほど言われてますが、コミュニケーションとは象徴的な位置により成り立っている/はじまっている。わたしの中でのその人の位置/わたしにおけるその人、というある種の先入観・定義付けがコミュニケーションを定めているといった感じのことです。たとえば僕らはお店の店員に対し「客と店員」という関係をすぐに取れる。その店員がどんな人物でどんな性格なのかをまったく無視したままでも。あるいははじめて会う親戚相手でも、「親戚同士」という関係をすぐに取れる。彼がどんな人物どんな性格なのかを気にも留めずに。はじめて会う友達の友達相手でも、「友達の友達同士」という関係をすぐに取れるし、はじめて会う彼女の元彼のような複雑なシチュエーションにおいても、「今彼と元彼」という関係を瞬時に取れる。そこにおいては彼がどんな人物でどんな性格なのかはまったく無視される(それらに目が向けられるのは、その関係が成り立った次段階においてだろう)。つまり、目の前の彼が何ものかなんかは、まったく気にされていないのだ―――それと同じ様に、友達にしろ恋人にしろクラスメイトにしろ憧れの人にしろ嫌いな奴にしろ、象徴的位置に収まることによりそうであると定義付けられる。そもそも人間関係というのは、無理矢理に定義付けてはじめて「友達」だの「知り合い」だのと定義付けられるものであって、たとえばボクと彼は友達だ、なんてことは自明の理になっていない(自明ではないから「わたしたちは友達なのかどうか」を問う物語が多々あるのだ)。

そういった「切り取られた自分」―――『おとボク2』で言うなら、お姉様としての・エルダーとしての・寮の一員としての・女学生としての「千早」などはそうでしょう。あれが100%の素でないことは明白である(男の子が女の子のフリしてるんだから当たり前だけど)。しかし、あの千早というキャラクターにおいては100%の素である。お姉様としての・エルダーとしての・寮の一員としての・女学生としての「千早」として確立されていて、ほとんどみんなそっちの方だけ見ていて、千早もそっちの方だけ晒していて、それで世界が廻っている。ならば、ここには、その作られた千早と、作られていない本物の千早といった対立は存在しない。そもそもの「本物」からして存在しきれないのは常識ではあるけれど(子供としての千早、男としての千早、引きこもっちゃう千早、史に優しくする千早、母さんに優しくする千早、千歳の代わりとしての千早、エトセトラエトセトラ……人は多種多様な面=キャラクターを持っていて、そのどれか一つを取り上げて「本物」と称することは不可能だろう)、ならばその「キャラクター」が、”本物と同等”だと言えるのではないだろうか。

ここに居るのはお姉様としての・エルダーとしての・寮の一員としての・女学生としての「千早」であり、またお母さんのことを大事に思う・史のことも大事に思う・女装してるけど男であることを忘れず固持しようとする・父に反抗している「千早」でもあり、それらがそのまんま存在している。それらに、どれが本当・どれが嘘というラベルを付けることなく、全てが千早として存在している。つまりキャラクターが実存していると言い換えることもできるであろう。
まあ要するに、普通に考えてみて、僕らが見てきた/知る限りにおいて、寮にいて女の子している千早も、学校でエルダーお姉様している千早も、実家に帰って息子している千早も、全部変わんないじゃん、ということです。それらがまるで別人のように見えるでしょうか、と問えば、答えはノーでしょう。それぞれ微妙に違う、少しずつの差異がある、けれどまったくもって千早じゃん、ということ―――

カーミラ 「たとえこの姿が偽りのものだったとしても、その心は一つ……私は貴女をこんなにも大切に想う。その心は真実よ……だから信じて」

ディスコネクテッド

千早くんは「そもそも失敗してきた」、ということは作中で語られています。ここでの生活を見てるとその理由も理解できる。なにせ驚異的な説教王っぷりですからね、会う人みんなに説教して諭してるじゃねーか、と言いたくなるくらい、何かしらの正論を吐いていく。外から見た感じだけなら「上から目線」と嫌われた(そして自分でも嫌った)かつての姿とあまり変わりがないように見えます。

声「何なのさ、その上から目線は……お前そんなにエライ訳?」
僕はそんなことは考えていなかった……少なくとも最初のうちは。
そう見えていたのは、別にあいつらを見下していたからじゃない。
……ただ無力な自分に絶望して、何に対しても関わる気になれなくて…冷めた態度しか取れなかっただけだ。
父さんの振る舞いを許せないとは思ってはいても、その庇護の外へと飛び出す気概もない自分……そんな自分を下らない言い訳で飾るので精一杯だった。
虚勢や強がり、見栄……身を護るための薄っぺらな仮面。それがやがて目に見える形になって、周囲に対する棘へと姿を変えていったのかもしれない。
冷笑家で皮肉屋な僕自身は、恐らく今もそれ程変わってはいない……ただ、それを許してくれるみんなが優しいから、きっと僕はこの場所に居ることが許されているのだろう。

見えるけど、上手くいってるということは、かつてとは違うのでしょう。実際に千早の説教・諭しがどう受け止められてきたかというと、概ね良好で好意的ではあるのだけど、一方では理論武装だとか理屈屋みたいに言われてもいる。また誰にでもあっさり通用するわけではなく、たとえば沙世子さん相手の問答の時などはかなり手練手管を用いて、強引気味に自己の主張を押し付けていた。
それなのに、なぜここでは上手くいってるのか? ―――かつてとの相違点を探ればいい。まず「場」が挙げられる。これは千早が前記の引用文のように言うとおりでもあり、周りの優しさや男と女の違いにもある。次に立場がある。外見において好意的な印象を与え、さらに年上として、お姉様として、エルダーとして上から教えてもおかしくない立場になれば、そういう行動も受け入れられるであろう。それは薫子さんが当初抱いていた「完璧超人」というイメージもそうで、あんだけ何でも出来るんだから言うことも正しいということである。そして最後には、そのキャラクター、その主体が挙げられる。千早の説教をよく見ると、以外にも思想の傾向がない。というか、だからこそ上手くいってると言えるかもしれません。ここ最大の特徴は、「誰相手のどんな場合でも概ね上手くいってる」という点です。薫子さん相手でも初音さん相手でも優雨ちゃん相手でも誰であろうと、初対面に近い状態であろうと親しかろうと、千早の説教/諭しは概ね上手くいく。相手にとっては感銘と理解を与える。ありとあらゆる相手と場合に対応できている。ということはつまり、ありとあらゆる相手と場合に対応できる方程式を用いてるのではないだろうか。その式とは、相手の求めに応じるということ。自分の主義主張や思想を押し通すのではなく、その時の相手が求める思想や主義主張を与える。実際、千早の矛盾を孕みそうなほどの自由自在な思想を有している説教/諭しは、そうでもなければ説明できないのではないだろうか。しかも、かつては嫌われ疎まれていたそれが、ここでは上手くいってるというのだから、よりそのように思われる。ここにいる千早とかつての千早との最大の差は「ある種の自分のなさ」にある。「我がない」と云った方が近いだろうか。それも当然で、だってこの千早はある意味「別人」になりきっている=演技しているんだから、我が無くなって/変化していないほうがおかしい。そこにおいては、

虚勢や強がり、見栄……身を護るための薄っぺらな仮面。それがやがて目に見える形になって、周囲に対する棘へと姿を変えていったのかもしれない。

のような、かつての失敗は存在しないだろう。虚勢や強がり、見栄などは存在しない……むしろ目立ちたくはないんだから、今の千早に在るのはその真逆。そういうかつての我が無くなったからこそ、ここの千早は上手くやれているのではないだろうか。
そしてその姿勢こそが、相手にとっての魅力にもなっている。

雅楽乃「あの方は、今在るものを……ありのままで受け止めて下さいます。飾りなどに囚われず、本質を見て下さいますから」
初音「……そうだね。優雨ちゃんのことを最初に解ってあげたのも千早ちゃんだったし……雅楽乃の云うこと、解るような気がします」
雅楽乃「はい。あの方には殊更に意地を張ったり、強がってみせる必要がありません……寧ろそれが無意味なのです。そういうところに、私はとても惹かれてしまうのです」
薫子「無意味……」
そういえば、確かに千早はいつもそうだった。
あたしがどんなに強がろうと、嘘を吐こうと……必ずその向こう側のあたし自身を理解しようとしてくれていた気がする。


さてしかし、ここでは上手くいったけれど、次は・別の場合はどうなのか、女の千早なら上手くいくけど男の千早だとどうなのか、といった点は存分には語られていない。いま千早が居るところとそこから形成された(現在の主体としての)千早は、かつての千早とディスコネクテッドなのだから、単純にAはBになったというように千早が成長したなんて述べることはできないのではないだろうか―――たしかに出来ない。各々の主体は全てキャラクターとして同一人物下にあるとはいえ、それを自在に用いたり統合したりしているわけではない以上、ひとえに「成長」などと括ることは出来ないのだけれど、しかし、その問題は解決されている。ここに在るのは半ば強引な飛翔である。

中合わせ

果たしてこの問題は解決したのか・次は上手くやれるのかという不安も、ここでの経験と彼女とのこれからの日々というヴィジョンがあっという間に置き去りにした(よーするに、個別シナリオに入ると(一部シナリオを除いて)その辺ガン無視されるということ)。そこに危うさを感じるといえばそうなのだけど、しかしその勢いこそが、自分という檻から脱出する速度にもなっていたのではないでしょうか。
そもそも全シナリオで「親」「その縛り」がひとつのモチーフと……あるいはシナリオにおいて対応・解決される「問題」となっていたように、『おとボク2』はその縛りから脱却する/しようというお話でもある。
ただし親を殴り飛ばすわけでも論破するわけでも大喧嘩するわけでも家を飛び出すわけでもない(シナリオによってはそういうシーンもあるけど)。核となっているのは、薫子さんシナリオが、あるいは淡雪が、雅楽乃が、香織理が、……史はある種強引な跳び越えであったが……そして千早シナリオがそうだったように、向き合う・あるいは言う勇気ではなかっただろうか。「優雨と親」について示唆されていたことだってそのようなことだったけれど。自分自身を超克する最良の手段が勇気であることは言うに及ばないが、これは自分自身を縛る檻においても当てはまる。親が自分を縛るというのは、自分だけの問題ではないが親だけの問題でもない、親と自分との問題なのだから。
―――そこにあるのは多少強引に見えても最大戦速でもって駆け抜ける強さではないだろうか。そもそも、各シナリオ、「親と向いあったあとはすぐ終わる(その先に問題は起こらず終わる)」ように、そして向かい合ってる中身が「別段深くは・細かくは語られない」ように、――要するにそれらを逆算すると、「向かい合えばそれでいい」という話なのです。そして向かい合うには勇気が必要で、ということはつまり、勇気を持てればそれでいい。

その強引な勢い・飛翔が、蛮勇的に纏めている――それが『おとボク2』なのではないだろうか。

――もちろん、各シナリオがそうだったように、その往く道は「一人ではない」ということが強調されています。主人公が・あるいはヒロインたちが口にするように、千早と彼女たちは確かに「似ている」。環境だったり境遇だったりこれまでの人生だったり性格的なものだったりが、大なり小なり似ている。けれどまったく同じというわけではない。初音さんが『誰にでも似ているようで、誰にも似ていない』と評したように、似すぎているというわけではない。けれど、だからこそ、手を取り合っていけるのではないでしょうか。背中合わせに(の)あなたが知りたいのであって、決して鏡合わせでないのはそこにおける決定的な差を表している。鏡合わせになるほどに似ている二人ではないということ、そして、鏡の対象として用いないということ。似ている相手と自分との差異を、自他認識の道具として用いないということ。あくまで、背中合わせで。そうであるからこそ、エピローグで描かれるような未来が保証されるのではないだろうか――そしてそれが、この危うさを退却させ、当初の(コミュニケーションの)不穏をも、包括している。

エロゲの限界としての「トラウマ/問題解決」

http://togetter.com/li/27861

よくわかんないけど求められてるイメージからは『NG恋』とかがいいんじゃないでしょーか(勿論コトは除く)。


http://togetter.com/li/34084

むしろあらゆることが問題に回収される身振りというか事実こそが危険というか限界ではないかと思うのです。恋愛という次元だろうがその先という次元だろうが、問題という図式に喰われてしまうのでは同じようなものになりかねないのではないだろうか。


今のエロゲの最大の特徴にして、今のエロゲの限界は何かというと、それは「問題解決/解答で終わる」という点ではないでしょうか。抜きゲーとかは別として(やらないからわからん)、物語重視あるいは萌えゲーにおいてならば、全てのゲームがそうかと問えば勿論ノーですが、かなりの多数がそうかと問えばイエスと言わざるを得ない。もうちょい言うと「ヒロインの問題解決/あるいは問題への解答(ないしその示唆)」、尚ここでいう問題というのはエロゲ的な意味でのトラウマも含みます。そこに主人公も絡める(ヒロインの問題解決ではなく主人公の問題解決やトラウマ対応)ことは多々ありますが、しかし結局はそうである。つまり問題であり、問題解決である。要は全てが問題・問題解決に回収されている

告白で終わるかその先を描くかとかも、この形式の上では意味ねーわけですよ。結局どこをどう何をどう描こうが、最終的には問題/問題解決に回収されてしまうのですから。告白(のあたり)に問題が配置されるのか、その先のどっかに問題が配置されるのかの違いでしかない。恋愛も生き様も青春もコミュニケーションも、ぜんぶトラウマへのカウンセリングと問題解決への寄与という構図に還元されてしまう。今のエロゲに足りないのは――今のエロゲの限界はそこではないだろうか。最近で言えば『クドわふたー』も『おとぼく2』も……ああ、おとぼく2なんて共通パートでは、深く考慮した結果繋がってるけど断絶している関係の瞬間瞬間という現代的コミュニケーションを十全に描けていたのに、話をまとめる個別ルートに突入したら、その辺全部投げ捨ててただのヒロイン問題解決ゲーに成り下がってしまうという、エロゲ構造の典型的な悲劇に出くわしてるし!(※ルートによって多少変わるけど) 「問題/問題解決」がエロゲの限界ってのは、つまりこういうことが言いたいわけです。なにを描いていても・どんなことも、(個別ルートでの)「問題/問題解決」というゲームを終わらすための手段が全部かっさらっていってしまう……!

ぶっちゃけ問題解決という図式ばっかという事実にある意味飽きを感じる。
もちろんそれ以外もあって、たとえば問題解決という図式自体に中指おったててるタカヒロさん作品や、そんな図式ともセックスしてしまっている保住圭作品や、スケールが十個くらい違うのでここまで来ると次元が違うとしか言いようがない桜井光作品や、主人公の問題すらも「問題という言葉に還元できないレベル」にまで真摯に向き合った結果一から十まで全部描くことになった奈良原一鉄作品とかとか(そういえば「告白で終わるエロゲ」の極北って『刃鳴散らす』だよね、ここまで極地だとそれは素晴らしい)、そのエロゲ的構図の向こう側が見えている作品もあるんですけど。もちろん主流ではない。
問題解決やトラウマ解決というのは、「先」を示唆するために必要な、ある種の「契約」ではないかと思えて。何十時間もプレイしておいて「彼はエピローグの2ヵ月後くらいには別れましたよ」なんてオチは(なんてオチを想像できるようでは)さすがに虚しい、だからその作中で描かれない継続の可能性を指し示すために、問題やトラウマの解決というものが用いられている。これだけこの二人は(精神的に)相性が良いのだ、これだけこの二人はお互いにとって不可分なのだ、だから物語が終わった後でもそう簡単には別れない――要するに、わざわざ数十時間プレイするエロゲで描かれる物語なんだから、それに相応しく「彼らの人生にありふれた恋」ではなく「運命の恋」的なものに高めるための契約として、問題解決やトラウマ解決があるのではないだろうか(あるいは、問題解決やトラウマ解決の結果としてソレがあるのではないだろうか)。彼らの恋愛を崇高化するひとつのメソッド。さらには、エピローグで数年後の結婚した彼らの姿を描くとかでさらに補っている作品も、決して少なくはない。
―――しかしその正逆に、別に別れても問題ないものを彼らは(作中の範囲で)既に得ているぜ、あるいは別れても問題ないという事実を逆に作中で描いてるぜ、というのを十全示した(別に作中で別れてはいないけど、もし別れても大丈夫だってのを想像できる)ものもある。それこそタカヒロさんとか保住さんとか。そういう方にひとつの未来があるんじゃないかなとか思いつつ終わり(まとまってない)。

エロゲにおけるパンチラや裸や視線などに関する一考

えっちなのはいけないと思います!”、その有名な故事に倣って、僕たちもエロゲに対して言いたいですね。無駄にえっちなのはいけないと思います
先日『FORTUNE ARTERIAL』をプレイしたのですが、ちょっと驚きの場面がありました。序盤、ヒロインが入っているお風呂に主人公が誤って入ってしまって裸を見ちゃう、という超ベタイベントがあったのですが、そこでのCGが「湯気補正」されてたのです。

たとえば地上波アニメのように、たとえば全年齢のコンシューマギャルゲーのように、おっぱいとかお尻とかしっかりとは見えないように湯気で隠すよまして乳首とかありえねーし、という補正がかかっていた! これはエロゲとしては驚きの事実です。だって――皆さんご存知のとおり「エロ」ゲですから、18禁のアダルトですから、おっぱいもお尻も乳首も露出し放題なわけです。実際、他のゲームでこういう場面があったらそれなりの確率でおっぱいお尻乳首が露出されているでしょう。むしろそれはひとつの「サービスシーン」として、エロゲの長い歴史において存在してきた筈です。ヒロインが入ってるお風呂にうっかり入っちゃうとか、脱衣所でばったりとか、あるいはもっとダイレクトに、お風呂や更衣室を覗くとか―――そういうものがサービスシーンとして、太古の昔から存在してきた(なにせ『ときメモ』にすらあったくらいだし!)。
しかし『FORTUNE ARTERIAL』は”逆に”、見せないという方策を採ってきたわけです。ちょっと裸を見せるとかちょっと下着を見せるといったようなサービスシーンを”逆に”用意しない。これは驚きなのですが、しかしある種理に適っているのではないでしょうか。

諸君は生娘だろう!諸君は着娘だろう!

たとえば、肌の露出が多いと軽そう・遊んでそうに見える――というのは男女問わずで言えることですが、逆に肌の露出が少なければ、それだけ鉄壁の・うぶの・清純のイメージを保つことが可能でもあるのではないだろうか。エロゲヒロインの大多数が処女で、しかも男と付きあったことないという子もかなり多数なのだから(現在のストーリー系・純愛系・萌え系のエロゲでは「ほとんど」全てのキャラがそうだ、と言っても過言ではない)、裸やパンツを見せてしまうことより、裸やパンツを見せないで、その処女性という幻想を高めた方が効果的な場合もあるのではないだろうか。


FORTUNE ARTERIAL』の恐ろしいところは、主人公とエッチする関係になるまでは、裸はおろかパンチラすらほぼ無い、というところです。唯一といっていいパンチラ場面がここなのですが*1

ご覧のとおりメチャクチャ分かりづらいです。よく見たらパンチラしているかも、いやこれは本当にパンチラなのか、てゆうかパンツなのかこれ、しかしパンチラといえばパンチラなのだろう、と言えるくらい、非常に地味で分かりづらいパンチラである。しかもこれには、普通にプレイしている限りだとさらに気づきづらいというおまけがあります。つまり、通常は文字が書かれているテキストウインドウがあって、さらにそのパンチラに気づきづらいということ。

もの凄く小さな面積のパンツが本人は見えてることに気づかず周りも見えることに気づかないくらい極々僅かにパンチラしているという、ある意味では非常に現実的なパンチラがここにある。

パンチラもないし裸も見せない(もちろん物語終盤、主人公とHする仲になれば(エロシーンとかで当たり前のように)見せてきますが)。そのくらい見せない『FORTUNE ARTERIAL』ですが、そのことに対する不満など全く目にしたことがない。当然でしょう、これが抜きゲーだったら非難轟々かもしれませんが、純愛系でのパンチラや裸の有無など誰も気にかけていないのだ。むしろパンツや裸を鉄壁にガードすることによって、彼女たちのそれらを「手の届かないもの」的な地位に押し上げた方が、恋愛を描くのであれば有利に働くのかもしれないのではないでしょうか。実際『FORTUNE ARTERIAL』において、裸やパンツを見せなかったことが、そうでなかったことより(物語とか恋愛で)意味があったかと問えば、あったのではないだろうか。


ホイホイ裸見せてパンツ見せてというのは、それ以外にもマイナスの効果があるかもしれません。所謂「純愛ゲー」(この言い方もアレですが、便宜的に)だったら、女の子はパンツや裸を見せてしまうより、見せない方がよりらしく・より純粋に在れるのではないだろうか? パンツや裸を見せてしまうと、彼女たちはその瞬間、我われにとってある種の「性の対象」となる。(文字通り)目に見える証拠によって、性欲が喚起される/あるいは想起される。そういう方向に持っていかれる。そもそもパンチラや裸見せシーンというのは、作り手が「そういう方向に持っていかせたく」描いているのではないかと想定できるのだから当然です。――つまり、これはサービスシーンだ、ほら裸だ、パンツだ、乳首だ、要するに、性欲の対象としての彼女たち(の部分)だ! というのを見せられているのだから、そう思うのも当然ではある。
僕らがプレイしているのが抜きゲーなら話は別ですが、しかし物語や純愛や恋愛を楽しみたいまなざしでプレイしているのなら、性の対象としての彼女を想定させられた瞬間に、物語/純愛/恋愛の純粋性は失われてしまうのではないだろうか。随分デリケートな物言いですが、性の対象としての女の子を商品化するとでも言わんばかりの経緯を辿ってきたエロゲだからこそ、そういった視線の介在性にはデリケートにならざるを得ない部分もある。
そもそもパンツや裸をダイレクトに見せなくても、僕らは常にキャラクターを視姦しているのだから(=これは、「視姦することしかできない」「視姦させられている」と同意でもある。プレイヤーに選択権は与えられていない*2)。

エロゲの視線

そろそろ我われはエロゲをプレイする際の視線について真面目に考えなくてはならない。


上の画像を見て欲しい。わたしたちがプレイするエロゲの通常時の画面形態というのは、概ねこのようになっている場合が多い。キャラクターの立ち絵があって、下の方にテキストウインドウがある。もちろん、たとえば『Fate』みたいに画面一杯に文字が出てくるゲームとか、『装甲悪鬼村正』みたいにテキストウインドウが画面の真ん中に縦方向であるゲームとか、そもそもノベルタイプじゃなくてアクションだったりRPGだったり多種多様ありますが、しかし一番多いのはこのような画面形態のゲームでしょう。
ここではわたしたちは通常*3、表示された時とか切り替わる時とかにチラッと立ち絵を見ながらも、基本的には、文章を読むために、テキストウインドウ部に表示される文章を見ています。つまりテキストウインドウを見ている。しかしよく見ると、テキストウインドウというのは丁度、彼女たちの足やお尻や股間やスカートの部分にあるのです。
つまり我われはプレイ中もっとも目にしているテキストウインドウの半透明性を通して――テキストウインドウはデフォルトである程度半透明に設定されていることが多い――、彼女たちの足やお尻や股間やスカートを、そうと意識せず見ている。半透明に隠され、おぼろげながらも見ている。つまり、我われは彼女たちの足やお尻や股間やスカートをサブリミナル的に見ている、と言えるのではないでしょうか。


さらにキャラが近づいて描かれる――いわゆるバストアップで表示されれば、

テキストウインドウも胸の位置になる。つまりバストアップの言葉どおり、我われはここでは彼女たちのバストを、テキストウインドウの半透明を通じてサブリミナル的に見ることになる。―――これは上に例で挙げた、『FA』における数少ないパンチラシーンもそうであって、あれもスペースキーを押さない限りは、半透明なテキストウインドウの向こう側にうっすらと存在のおぼろげなパンツを見るというものであった。
半透明のテキストウインドウというヴェールの奥のキャラクターの身体が、そこを見るつもりではなくて(テキストを読むつもりなのに)見てしまう(見させられる)という無意識的な運動を介して、我われにこっそり/ひっそりと浸透してきているのではないだろうか。だから本来的には、僕らは彼女らの肉体を無意識下ですら見させられているのだから、パンチラや裸などは必要ないのだろう――本当に、「サービスシーン」以上でも以下でもないのだ。

エロゲというと、たいてい、ヒロインと仲良くなって物語が進んでそれでようやくHとかになるんですけど、それはプレイ開始から数時間後〜数十時間後とだいぶ先ですから、それまでにサービスとして、あるいは見せ札としての下着や裸があった。しかし『FORTUNE ARTERIAL』のように、実際はそのようなものがなくても(ストーリー系・純愛系においては)問題がない、むしろそれが在るよりも無いほうがプラスとして奏功する場合もあるのではないでしょうか。

*1:あともうひとつ、最早間違い探しレベルの微パンチラとして http://f.hatena.ne.jp/n_nisin/20100707004226 がある。

*2:ゲーム自体をやらないといった、メタレベルの選択権ならあるけれど。

*3:オートプレイとかスキップとかは別として。もちろん人によってその通常とは全然異なる特殊なプレイ方法とかあると思いますが。

『クドわふたー』について 〜way to the myselfHigh/あるいはクドはいかにして歯車から脱したか〜

クドわふたー 初回限定版クドわふたー 初回限定版
(2010/06/25)

以下思う存分「ネタバレ」していますので、まだプレイしていないひと/ネタバレは困るっていう方はご注意下さい。


.-1

   ”ふー・あむ・あい”

.0

ジャック・ラカン「欲望とは他者の欲望である」―――この言葉は、我われがいかに自分の欲望すら知らないのかということも表しています。外部から請求されるように現実化する欲望のカタチ、というのがこの言葉の突き詰めた所である。しかして―――そこにおいて、能美クドリャフカは、いかようであっただろうか。

.1

領土化/脱領土化/再領土化。それらの往復運動から紡ぎ出す、というのは恋愛物――特にいちゃラブ系のひとつの形ではあります。何かを与え、何かを与えられ、それぞれを自分のものとしていく、その往復運動。すでにクドと恋仲であるというところからはじまる『クドわふたー』もまた、そういった運動に支えられていました。
そもそものはじまりからして、「理樹を自分の部屋に招き入れる/クドの部屋に自分が入り込む」という領土化/脱領土化と再領土化の運動であった。そこからはじまり、たとえばちょっとした会話から、身体的な触れ合い、あるいはご飯を作ってもらったり、それを食べたりといったようなこと、などなど様々に広がっていく。ここから先、少しの間、それらを細かく追ってみよう。もちろんプレイ済みの方にとっては当たり前すぎる事柄でもあるので、読み飛ばしてくださっても構わない。

「黒髪のひとの波のなかで、リキは私をすぐ見つけてくれるでしょう?」
「多くのひとたちの中からすぐ見つけて貰えるっていうのは『いいこと』ですよね」
「子犬たちの毛並みではありませんが、違うことは別段悪いことじゃないとか思ったりもして」  (7月18日)

「自分の髪の毛」というものの属性が変わる瞬間である。私のものである自分の髪の毛に自分が抱いてる認識が、他者の認識により変化していく。こういったものが、ひとつの脱領土化-再領土化的運動であるのは言うまでもなく、またここからしばらくはこういった話が展開することも言うまでもない。

自分だけの秘密基地。
その言葉はやっぱりわくわくするものがあった。
理樹「クドがここを見せてくれたってことがちょっと嬉しいかも」  (7月19日)

彼女だけのもの・隠れた場所を、お互いに共有していく、そういった領土化運動である。

理樹「…ってクド、どうしてそんな嬉しそうなのかな」
クド「リキのせりふ、私が言ったのとおんなじせりふです」
理樹「そうなの?」
クド「おかあさんにそう言ったんですよ、私」
僕が自分と同じ感想を持ったのが嬉しいのだろう。
僕も嬉しかった。  (7月19日)

他人に自分と「同じ性」を見つける。知る・近づく・獲得していく・お互いの境界がなくなっていく……その様とそれが反転していく様の流動性を指して、「領土」という言葉がある。

クド「どうぞ、リキ」
クド「髪の毛を触りたいという視線を感じました」
理樹「……」
いや、そういうわけではないんだけど。
そう答えようとして、それは間違っていない気もした。  (7月19日)

そう、このようにそれらは、勘違いすらも包括的に「領土化」する。

気がつくと手が伸びてクドの頬をむにっと摘んでいる。  (7月20日

それはもちろん象徴的次元に関わらず現実的次元――つまり身体的接触においてもそうであり、またそれは、正しく「いちゃラブ」である。

クド「その、怖かった、と思ってしまったのは『あんまりわからなかった』からだと思うんです」
理樹「あ、うん」
クド「ですから、その、わかりたい、というか」
クド「やってみたい、と思うんですけど」
クド「その…手とか…その、あの、で触って……」  (7月21日)

さあそして、この話題は際限ないのでここまでにしておこう。初エッチ後のひとコマである。そもそもセックスという行為が領土化/被領土化運動にあたるのは言うまでもないですが、だからこそそこには更なる奥の……”もう一歩”(ないしそれ以上)の領土化運動が生じうる。肉体的に繋がったから獲得できたわけではなく、触って、よく知って、そうやって更に/遂に獲得していくのである。――これの行き着くところが「紋様を描く」であるのは言うまでもないでしょう。見た通り相手の身体を(紋様で)領土化/自分の紋を相手の身体で被領土化(こちらからすれば再領土化)する行為が、そのまま家族の契りを結ぶことに繋がるという設定はもはやまんまと言えるくらい、領土化と繋がりという運動を表現している。

ここではクドと理樹「ふたりの」運動を見てきましたが、もちろんこれだけに収まるという話ではありません。じゃなきゃわざわざ取り上げません(当たり前だ、だってどんなエロゲにもありふれてることなんだから)。ただ、『クドわふ』においては、これは真実でありながらモチーフでもあるのだ。領土化/再領土化/脱領土化……領土を巡るお話がひとつの軸となってきている。

.2

  ”「今はまだ」「少し地面を離れてすぐ戻ってくる」「とても『私』っぽいですからね」”


「自分」というのは常にあるものに属しており、またあるものを隷属させている。―――換言すると、あるものを獲得しており、またあるものに獲得されている。たとえば国や言葉、生い立ちや半生、親や友人、そういった様々なものが自分を規定し、また自分がそういった様々なものに影響を(少なからず/たとえ極々僅かでも)与えている。そういった領土化運動。最早ここまでくると、ドゥルーズの用語としての「領土化」とは関係なくなってきますが、そこは気にしないでもらいたい。『クドわふたー』をプレイし終えた皆さん、つまりクドわふを領土化された方なら、それでもニュアンスで十分お分かりになるでしょう。
なぜこんな話ばかりをしてるかというと、そもそもクドというのはそういったものに縛られて存在してきた。もううろ覚えで語るのを許していただきたいが(だって覚えてないんだもん!)『リトルバスターズ!』のクドリャフカシナリオはそういうものだったではないだろうか。世界の良き歯車となれ―――その意味は、世界に縛られた自分であれということだ。君の存在にはこれこれこういう理由がある、これこれこういう目的がある、”だから”、それに従え。そのような被領土化だ。
そこから飛びぬけることによりクドはクド自身を獲得していく――自己を領土化していく。そういう話である。
  /
モチーフの貯蔵は十分だ。たとえば、自分の国という領土を抜け出し、自国語という領土からも脱し、しかも英語というまったく慣れ親しまない言語を領土化しなくてはならない。(自分が考える)「母」における自分/自分における「母」という領土。氷室さんとの関係性にだってそのようなことはある――もちろんお互いにだ。そもそもロケット・空を飛ぶということからしてそうだろう。足元・大地という領土を――自らを縛りつける領土を――越える跳躍なのだ。そして重力という領土も、やがて/いつかは越える。その脱領土化の先にこそ、「未来(あした)の自分」があり、そこにこそ届けようというのではないだろうか。

.3

さすれば、なぜ有月さん家族が「クドわふたーにおいて語られなければならなかったか」はもう明白でしょう。ここで語られるのはともかく「限界」の話である。

有月「私が欲しかったのは、こんな毎日じゃない!」
有月「みんなが笑いあっていられる、些細な日常なのに…」
有月「どうして、それが手に入らないのよ…!!」
有月「しぃの夢だって、そうよ!」
有月「あの子だって、いつか気づく日が来るの!」
有月「私みたいに、ボロボロになって…後悔するのよ!」  (7月31日)

これしかできない、ここまでしかできない。あるいは、

クド「有月さん…ひどいです」
クド「だって、椎菜さん、こんなに泣いて…」
有月「そうですね、ひどいおねえちゃんですよね」
有月「だけど、それがおねえちゃんとしての努めだから」  (7月31日)

これをしなくてはいけない。
人が大地に縛られて、だから簡単に宇宙にはいけないように、人には自分を縛る限界というものがあって、だから簡単に跳び越えられない。外的要因・内的要因さまざま。家庭の事情もあれば自身が怪我したこともある。あるいは語られなかった、まったく関係なくみえることも実は深く関わっているのかもしれない。それら様々なことが、彼女を縛り上げる。なんだって出来るわけじゃない。そんなことは子供だって知っている。
「でもおねえちゃんはさ」「おっきくなっても、なんでもできるわけじゃないっていってた」「つまんないことしか、いわないんだ」「おねえちゃんも、おかあさんも」「だからね、おかーさんのえほんもつまんない」(7月29日)
  /
しかし……プレイした人なら全員知っていることですが、その限界は脱領土化される。いや、正しくは限界はある。出来ないことはある。たとえば、ペットボトルロケット大会を優勝することは出来なかったように。何もかもを為せるわけではない。それでも、大会直後に「諦めなければ、次がある/続いていく」と語られたように。一度で限界から飛び立つことはできない。けれど、諦めず続けていけば、その行為そのものが、”その時点での”限界を越える行為となる。―――それは勿論、言うまでもないですが、「やがては未来に届くでしょう」。



みなで手を交わしポンプを押すその姿こそが、領土化/脱領土化/再領土化である。

.4

   ”「私はもっと飛びたいです」「300km以上の距離を…縮めたいんです」”


way to the mile high. ――わたしが今いるわたしの限界を越える行為。クドの行為とはつまりそれで、つまりクド自身を越えること。だから彼女は歯車という楔から解き放たれることとなった/ことが出来た。
ただそれは一人の力ではないですね。さんざん書いてきたように「領土化」。自分以外の人たちが自分自身に力をくれる。

クド「私を友だちと呼んでくれる、みなさんが…」
クド「私を好きといってくれる、リキがいます」
クド「まだ…弱いままですけど」
クド「でも、いまなら…逃げずにいられるかもしれません」  (After:8月2日)

幾度も語られたように、そもそも「ロケットはチームプレイ」なのです。少なくともクドわふたーにおいてはそうで、つまり何よりクドにおいてはそう。友達の力も恋人の力も、あるいは偶然に近いロケット部という隣人たちも、彼女の力と/強さとなる・なりえる。たった一人の力で重力圏から離脱する速度と強さを身につけなければいけない、なんてワケではない。周りの人たちの存在に助けられ、そこまで歩いていけばいい。何もかもを乗り越えるような神様みたいな強さは手に入らないけれど、誰かがくじけそうなときに諦めるなと手を差し伸べられる強さは――ひるがえれば、自分がくじけそうなときにそうしてもらえることは――誰でも持てる筈である。
母と自分との間には”さまざまな”距離がある。精神的に距離がある。クドはある種の負い目や引け目を感じていて、だから「好きだ」ってことすらちゃんと伝えられていない。それは母の方だって似たようなものかもしれない。とはいえ、ならばとっとと伝えに行けばいい――そう言えないのが、もうひとつの距離、すなわち物理的な距離。大地のクドと宇宙の母。その間には越えることの出来ないほどの距離が挟まれている。
――けれど、それでも――
そう云うのが、このお話でありました。way to. ロケットでも通信でも、気球=希求でも、ほとんど藁を掴むような行動でも、祈りとなんら変わらない行動でも、しかし求める、縮めようとする。そして、だから、そういう行動が、未来へと続いていく。やっても無駄かもしれないそれをやったことが、未来に繋がっていたのです。
  /
さて最初の問いに戻りましょう。「クドリャフカと名付けられた女の子は果たしてどうしたか?」
実はかんたん。そう思い返せば、『リトルバスターズ!』の一番最初(OPムービー)からして彼女はこんなことを言っていた。『ふー・あむ・あい』と。自分は誰なのか。自分は何なのか。その議題はある種全人類共通のものでもあるのだけれど――名前で強化されているがゆえに、彼女には強く圧し掛かる。それを見つけるのが、クドのお話でもあった。
クドはクドである。能美クドリャフカ能美クドリャフカである。だから――自分にまとわりつくものも、自分に降りかかるものも、自分のものとして得て(領土化して)生きていく。

そうであるように生まれた、と言う。
名のように、なってしまう。
でもそれは押し付けられたわけじゃなくて…
本人が選んだのだ。
クドがクドであるように。
――椎菜ちゃんは、椎『菜』ちゃんに、なった。  (8月1日)

椎菜ちゃんのそれと同じである。
最後のシーンで、宇宙に居るクドが『私は誰なのか?』と自問し、『アイアム・ナウ・ヒア』と答えたように。彼女はクドで、ここにいる彼女がクドで、そうであるからこそ、クドのことをクドが――自分のことを自分が――引き受けていくのである。
早い話が、語呂合わせ的でもあるが、実際そうだったのではないだろうか。能美クドリャフカとは、つまり、know me クドリャフカという意味でもあったのではないか、と―――

.EX

”『ぼくは、この箱の中でうまれたんだ』『そして、この箱の中でしぬんだ』『いつでも出て行けるけど、でもそのつもりはない』『出たら、半分のかくりつで死ぬからね』『だったら、外なんて見なくていいじゃないか。ちがうかい?』”


もっとも周縁的なのにもっとも重要であり尚且つもっとも奥ゆかしく語られること。
現代のエロゲにおいて「主人公」は――「主人公の問題」は欠かせないものとなっている。現代エロゲで主人公を無視する作品はそれだけで大きな瑕疵である。最近の良作を思い出してみればいい。大半が、主人公を無視していない/主人公を語っている。
ましてやこれは『リトルバスターズ!』と異にして同にするもの。恭介も謙吾も真人も鈴もいないここは、確かに『リトバス』から脱領土化されているけど、しかし理樹は確固として存在しているのです。しかも――しかも、彼らがおらず、その上あの世界(仮想世界)でもない、この現実のここで。理樹くんは、いかにして、どうやって、自分の問題/トラウマを乗り越えていくのか? そこに本作はどういう答えを出したのか? テキストで十全に示されているので、ここでは簡単に引用を並べておきたい。

理樹「それから、これは傲慢なのかもしれないけど」
理樹「言葉だけの意味じゃなくて…クドが何か壁にぶつかったときに支えになれるようになりたいよ」
理樹「クドの心の中で、礎になれたらいいなって思う」  (7月20日

…不意に理解した。
きっと誰かから求められるってことは、こういうことなんだろう、って。
痛みの中で、それでも呼びかけられること。
欠落がある僕の心の隙間には確かにクドがいて、クドはそんな僕を必要としているってこと。  (7月20日

理樹「勘違いかもしれないけど。最後にクドに入ったとき、何かのすきまが埋まった気がしたんだ」
理樹「ずっと空いてたものが満たされた気がしたんだ」
理樹「だから、ありがとう」
その手を捕まえてお礼の言葉を口にする。
苦痛にあえぐ女の子が、痛みを与えている僕から逃げず、受け止めてくれたこと。
もしも僕が孤独という重みで押しつぶされそうになっているのなら。
クドは確かに僕の重みを少しだけ背負ってくれたのだ、と思う。  (7月20日

クドはクドで色々思うところがあるのだ。
そんな当たり前のこと。
だからこそ『小さな目的』をひとつ、設定した。
『クドの力になれる僕』になること。
僕はクドの手を取ることを選択した。
だったらクドは困っているときに手を引く強さがある僕でいたい。
そう思ったのだった。  (7月22日)

未来のことを考えると、からだのどこかが痛む気がする。
理樹(…きっと僕は、まだ『今に留まっていたい』と考えているんだろうな…)
だから決められない。
進むことを決めた途端、その決まったことがあっという間に消えてしまいそうな恐怖。
どこからか忍び寄る逆らいがたい眠気。  (7月22日)

「失ったものは取り戻せない」「生きていく限り、失い続ける…」「僕は俯いてぼんやりとそんなことを思った」(7月22日)
そもそも理樹くんの問題/トラウマとは何か?と言えば、つまりそういうことでした。「生きることは失うことだ」。それが発端であり、それが全てのはじまりである(リトバス本文より「僕は知りたくなかったんだ。生きることが、失うことだったなんて。そこで、歩みを、止めた。」)。だからこそリトバスでは心的現実において”そこを覆すことによって”ナルコレプシーから脱することができた。しかしそれがない本作ではどうするのだろうか。答えは下記に続いていく。

やってみなくちゃわからない。
やる前から諦めていたら何も進まない。
失うことばかり恐れていたら、何も得ることはできない。
理樹「……」
僕は、自分の胸を押さえた。
自分自身の思考がえぐるように突き刺さる。
ふらりとからだがよろける。
どこからかくる眠気。
クド『いつかは辿り着けると…そう信じています』
眠気を振り払うのは好きなひとの言葉。
何かを信じること。
理樹(つまりそれは諦めないってことだ…)
眠いという欲求は、潮が引くように消えていく。  (7月29日)

苦しいことがあって、打ちひしがれるようなことがあったとき――。
――誰かを救う強さこそが欲しかった。
弱くてよかった。
普段は弱いままでよかった。(中略)
けれど…。
僕は、僕の大切なひとたちが何かを失いそうになったときに、支えられる人間でいたかった。
あきらめちゃだめだ、と。  (Star Duster)

諦めないってことを刻まれることによって、眠いという欲求が潮のように引いていった(上述7月29日)ということは、諦めないことがそこから脱する方法である。さらに一歩進めれば、それが理樹くんの求めていたことでもあったのではないだろうか。失うから歩みを止めたままでは”さらに失う”。だからこそ「諦めない」という強さこそが求められている。否、それだけが手に入れられるのではないだろうか。待て、しかして希望せよ――それを為しえるには、為しえるだけの、諦めないという、強さが必要なのだ。

何もかも失ってもなお立ち上がる強さなんて僕たちには一生手に入らない。
失うたびに僕たちはくじけそうになって、弱音を吐いてしまうだろう。
理樹「…でもさ」
理樹「誰かがくじけそうになったときに、まだ諦めるな、って手を伸ばすことのできる勇気」
理樹「それぐらいは持っていたい…」
理樹「あきらめちゃだめだ」
理樹「僕はあきらめちゃったんだ。今でも『ゆめ』にみる」
理樹「弱かった自分をみているんだ」
理樹「ひとりになってしまう怖さに負けた自分を」
理樹「僕に力があったら、あの時、名前を呼べたはずなのに」
理樹「あの時、すこしだけでも強くなれたら、いつも呼んでいたはずの名前を呼べたはずなのに…」
理樹「ずっと後悔している」
理樹「大切なひとの名前を、ただ呼び続けることができなかったことを悔いているんだ」  (Star Duster)

つまり行き着く先はここで、つまりこれが答えです。テキストから分かるように、これはひとつの代償行為のようになっている。もちろん理樹くんの行動が代償行為になっているのではなく、クドの行動が代償行為のようになっている。つまりかつての自分を励まし応援し、そして一緒に「かつての自分」を乗り越えるという、今の理樹くんからの飛躍である。ロケットが地面から飛び立つような。今の領土から脱して、別の領土に赴くような。そういった、飛躍。それがここにあり、それで理樹くんは「新たに」歩き出せる。
   /
「ロケットが飛ぶために利用しているのは『作用反作用の法則』です」と言われていたように、押される力はやがて押す力に変化する。圧力を加えられた分だけ後で伸びて、雌伏の分だけ雄飛があり、助走の分だけ飛距離は長くなり、苦しんだ分だけあとでそれに反発する力が得られる。
そういったものを得られるだけの「強さ」――諦めない、そして自分を引き受ける強さ、それは未来へと届いていく。そういったものを、自分で/彼女で/みんなで得ていく、それこそが『クドわふたー』でもあった、のではないでしょうか。

「エロゲ/泣きゲーにおける白痴性」について

http://togetter.com/li/32753
さてたとえばキミが萌え4コマ好きであり、そんなキミの前に「けいおん!」と「ひだまりスケッチ」と「GA」のアニメ版だけ見て「萌え4コマはほにゃららだ」とかドヤ顔で言い出している奴がいると思ってくれ―――あるいは、時節を加味するなら、ワールドカップしか見てないにわかサッカーファンが、もちろんニワカであることは悪くない、だがしかしにも関わらず「何かスゲー分かってる」顔で語りだす姿、それを想定してみてくれ。しかも上から目線なのだ。どうですか、ビックリしたでしょう。
この話はつまりそんなこととはまったく関係ない話である。いやこれを書いてるぼく自身が何かの混乱をきたしたのでよくわかんない(あまりにも―――、酷かったのだ)。

.0

「なぜエロゲヒロインに白痴が多いのか?」――この命題は嘘である。エロゲヒロインに白痴は多くない。どこからどこまでが白痴か? という天秤を主観に依拠した上で記しますが、僕がプレイした09年発売エロゲ約25タイトルの中で「それっぽい」ヒロインはゼロに近い。さらに「泣きゲー」がエロゲのメインストリームのように語られていますが、これも嘘である。09年発売エロゲの中で「泣き」が(ネット上の感想などで)大声で謳われていた作品なんて、『タペストリー』と『ナツユメナギサ』くらいしかなかったと思われる*1。つまり極めて少ない。2chベストエロゲランキング上位の『BALDR SKY』『俺たちに翼はない』『装甲悪鬼村正』『星空のメモリア』『さくらさくら』『しろくまベルスターズ』『コミュ』『真剣で私に恋しなさい!』エトセトラエトセトラ……いずれも「泣きゲー」ではないことは明白でしょう。そのうち何本かは「泣ける」ものでもあったけれど、しかしそれだけではなく、笑えたり、萌えたり、燃えたり、などといった点が、泣きと同じくらい、あるいはそれを上回るくらい施され、満たされている。現代における泣きゲーはもはや存在しない――たとえばKeyや、あるいは桜井光スチームパンクシリーズ(といってもインガノックとシャルノスだけかもしれないが)や、もしくは突発的に出てくる『タペストリー』や『ナツユメナギサ』のような作品……そう、そのくらいしか存在できていない。端的に言えば、現代においては複合的な要素こそが評価される。たとえば『マジ恋』は、『つよきす』に比べ「笑い」以外の部分がかなり強化されている――そうだからこその高評価であった。
そもそも「泣きゲー」というものは難しい。泣かせようとして悲劇を作中に盛り込んだら「鬱ゲー」という新ジャンルを作ってしまった2000年〜2001年頃の現象(『果てしなく青い、この空の下で』『銀色』『水夏』『君が望む永遠』という00夏〜01夏頃発売作品に代表されるような)は、ひとえに「泣きゲー」の難しさに由来する。そういう点では、パッケージ裏に「100万人が泣いた!」と大きく描かれた*2ように「泣きゲー」の始祖であるといっても過言ではない剣乃/菅野*3の後を継げたのは、『ToHeart』におけるマルチシナリオと、『ONE』と『Kanon』と『AIR』〜つまり久弥直樹麻枝准しかいなかったといえる。”そこから”、鬱ゲー化のような紆余曲折を経て泣きは続いていくわけですが、しかし「泣きゲー」というのは「萌えゲー」に比べるまでもなく、「バカゲー/ギャグ・笑いゲー」にも全然足りず、「燃えゲー」よりもさらに少ない弱小ジャンルになった/なっているのである。その理由は前述したように「難しいから」の一言に纏められる。剣乃/菅野・久弥・麻枝という存在がジャンルの基準を(非常に高いレベルで)標榜してしまったので、それについていくのが難しいという単純な理由である。方法論次第では――つまり前任者の方法論に合っていなければ「鬱ゲー」などと呼ばれてしまう。そういうサブジャンルである(そもそも泣きゲーとは、シナリオゲーの一形態に過ぎない……無論Key=麻枝はそこから除外されるが)。

.1

さてここで話を戻そう。”この場合の「白痴」”というのを、何処を基準に何を定義に誰が判断するのかという論理的な疑問をひとまず棚上げにし―――つまりイメージと印象による、それ故ファジーな語りに終始することを前提とさせて頂くが、なるほどKeyヒロインの幾ばくかは「そのようで」もあり、また先に挙げた現代の泣きゲー『ナツユメナギサ』の一部ヒロインも、09年作品においては珍しいことに、幾ばくかは「そのように」見えるかもしれない。フェミニズムもレイプファンタジーも、またそこを敢えて転倒することにより生じる快楽にすらも自明の現代エロゲにおいて、女性は弱者の表象を抱いていないのは既に常識である。ならばこそこれは、泣きゲーの構築要素――あるいは、泣きゲーをさらに加速させるための一装置なのでは/なりえるのではないだろうか。なぜKeyヒロインが白痴かというと、要するに月宮あゆ神尾観鈴の設定年齢は18才を絶対に越えているにも関わらず、見た目はもっともっと下――というより、「少女の表象としての少女」と呼んだ方が正鵠だろう、(その頃の)樋上いたるの絵は人間の少女ではなく「人形の少女」のような表象性-翻訳性を持っている。つまり見た目上は明らかに「少女」であり、内面もそれに則した、小学生か、あるいは中学生くらいの少女に見えるのに、年齢は18歳以上である――「18才以上」という建前の年齢ではなく、設定上推測される本音の年齢を考えても、やはり16〜18才前後であり(つまり高校生だ)、だからこそそこに白痴的齟齬が生まれる。
余談だが現代の能美クドリャフカはそこのところまったく上手くギャップを付けており――ああ、お前はいい加減プレイしろよという話でもあるのですが(「しかしこんだけ色々言われましたが直近で大ヒットって「クドわふたー」なんですよねぇ・・・」 最早残酷だよキミぃ!)――クドは見た目と口癖が白痴に見えるだけで、まさか「クドわふたー」をプレイしてクドを白痴とか言う者はいないだろう(シナリオのある意味での”のほほんさ”は、それを強化するように見えかねないが)、ってくらい、内面はそうではない。大人になろうと頑張ってる女の子であり、そもそも勉強は(主に理数)めっちゃできる。 つまり、変な服装とか「わふー」とかの”表象としての白痴”が、表面的な一部/一面としてしか存在できず(一部/一面としては存在できている)、むしろその奥側(内面)をより上手く・より鋭く描くための生け贄となっている。ギャップ萌えとはまた異なり、その関係は無意識と意識のように、ひとつの表象アルゴリズムとなっているが、それ故に見える片一方はルアーのように、獲物が引っかかるのを待っている。つまり、その回収されない態度(服装や口癖が、彼女の生い立ちやトラウマに強く関わってくるというわけではない*4)こそが、表象であるということだ。
またもやだが話を戻そう。その白痴性というのは純粋性とイコールに近い関係で結ばれている。つまり物を知らない、何にも染まっていない、純朴である、うぶである―――そういう態度を最も簡単に示す方法はなにか? 答えは「子供」である。子供なら全てが必ずしもそうとは限らないが、単純に大人よりも子供からの方がそういったものはイメージしやすい……結び付きやすい。子供であるということは、保留つきだが純粋であるということとニアイコールである。
”だから”「泣きゲー」においては有効である、とひとまず言えることはできるだろう。これは鬱ゲーではなく泣きゲーであり、ならば純粋さというのがひとつの有効打になるのは考えるまでもない。――しかしこの解答だけではあまりにもシンプルで、あまりにも淡白で、つまりわざわざ書くまでもないことだから、もうちょっと先に駒を進めてみよう。

.2

「なぜエロゲの主人公に白痴が多いの?」―――もちろんレジェンド・唯一神としての伊藤誠大先生が白痴主人公ヒエラルキーの頂点に立つのは言うまでもありませんが、しかし普通に言動を追っているだけでも「おかしい」主人公は数多い。もちろんピンキリではあるけれど。たとえばギャルゲにおける随一の泣きゲーである『メモリーズオフ』の主人公は、当時のファミ通クロスレビューですら「こいつ頭おかしい*5」と言われてしまったくらい変人であった。さて、それを、折原浩平や国崎往人らにもある程度(以上)当て嵌めることも可能なのではないだろうか(実際、三上智也と彼らとの差異はそんなに大きくはない)。ヒロインが白痴言われているけれど、現実という基準から考えれば主人公だって――白痴とまではいかなくても――おかしい存在であった。それは泣きゲーだけに限った話ではなく、ちょっとユカイな奴やウィットに富んだ奴から、果ては何故か支離滅裂なセクハラしか口にしない奴(『前後』とかな!)まで様々いるけれど、その彼らの白痴性にも注目するべきではないだろうか。
とはいえここでは「泣きゲー」についてのみ語ろう。泣きゲーの主人公は何か問題を抱えている方が良い。それがトラウマならもっと良い。「主人公におけるトラウマ」、それが一番最初にクローズアップされた作品は何かというと、やはり『ONE』なのではないだろうか。あるいは剣乃/菅野作品にも言えるかもしれないが、トラウマとまで呼んで良いのかは難しいところであり、またある限定条件下ならば『同級生2』などにも言えることではあるが、強く押し出してきたのは『ONE』かもしれない。それを完全に主題にしてしまった(ここではヒロインの問題解決のついでに主人公の問題に触れられるのではなく、主人公のトラウマ解決のついでにヒロインの問題が解決するのだ)のは『メモリーズオフ(初代)』であろう。彼らは、彼ら自身が泣くことにより、僕ら自身を泣かそうとする。ひとつの形式がそこで確立されている。
さて、であるからこその白痴性(「白痴」ではなく「性」がつく。ミシェル・フーコーが「民衆など存在しない。ただ民衆性があるだけ」と述べたように。完全に白痴な存在などいないのだ!)は、ここではその好転をもたらすための雌伏を導く機能として存在する。まずトラウマを忘れる(トラウマの基本原理を思い出せ。自分で覚えていることはトラウマではないのだ(覚えていることの裏側に、常にもう一段階が隠されている))、そう、彼は忘れる能力を持っていなくてはならない。そして後半、そのトラウマに直面した時の暗さに対応するような明るさを有していなければならない。言わば日常パートと個別ルートのギャップを、彼自身も背負っているのだ。そこにおいてのある種の白痴性だ。折原浩平の日常に挑む態度を、永遠憑きによって脅迫的だとthen-dさんは評して(http://twitter.com/then_d/status/12831694645)いましたが、斯様に「脅迫的に空転/回転」するくらいには白痴性を持っていなくてはならない。―――つまり? つまり、「非-完璧性・完全性」という話である。

.3

実は欲望というのは逆である。プレイヤーの所有欲を満たすために白痴の弱い女の子を配したのではない――それは欲望というものをまるで分かっていない。我われは常に「自分の欲望すら知らない」のだ。
順番でいえば、プレイヤーの所有欲や保護欲を満たすためにキャラクタが白痴なのではなく、キャラクタが白痴だからプレイヤーに所有欲や保護欲が生じるのです。たとえばFPSなんかは、物語の先を見たいだけでも選択の余地無しに銃をぶっ放さなくちゃいけなくて、――だから順番を間違えるものは、「FPSのプレイヤーは銃を撃つ欲望を持っている」と転倒してしまう。FPSをプレイしてしまったら、銃を撃ちたくなくても、撃たなくてはいけないだけなのに。 グランドセフトオートをやれば、犯罪行為をしたいという欲望を持っていなくても、まるでそのように見られる/評される。本当は、単純に、犯罪行為をしないと先に進めないから犯罪行為をする、というだけなのに、そのように評される。つまり、行なったことがその人の欲望なのだと。「美少女ゲームのプレイヤーは美少女と恋愛したがっている」という使い古された言葉も同様である。別に美少女と恋愛したくなくても美少女ゲームやったら美少女と恋愛せざるを得ないのだ。人はテレビゲームだからってしたいことだけ出来るわけではない。自分ではどうでもいいと思ってることだって、時にはやらされる/やらざるを得なくなるのだ。
しかし同時に、それは欲望の仕方を教えてくれるシステムでもある。人は自分の欲望の仕方を自明では知らない。ラカンの「欲望は他者の欲望である」という有名な言葉は、人は、自分が(なにを)どうやって欲望したらいいのかすら、他人に教えてもらっている、ということでもあるのです。欲望そのものはあっても、それを実現させる方法=現実化させる方法は自明ではない。そこを定めていく(くれる)のが、ここでいう「他者」である。ゲームでいえばそのシステム・配置である。スカッとしたいと思ってFPSをプレイし出せば、「銃を撃て」とゲームは要求してきて、そして銃を撃ったらスカッとした――ここにある欲望は「スカッとしたい」だが、ゲームシステムによりその実現方法として「銃を撃つ」が提示され、その瞬間に欲望は「スカッとしたいから銃を撃つ」に変化したのである。
つまりそれと同じ様なことで、所有欲やら保護欲やらは自明のものではない。人は様々に既に分節化された欲望を持っているわけではない。我われの主体化・社会化・幻想化がそれを導き出すだけなのである。

.4

ということで、長くなったが、結論。
泣きゲーのヒロイン、つうかKeyには白痴っぽい(白痴性を持つ)ヒロインはいるかもね、それがエロゲ全般に広げられると思ってるのならとりあえずエロゲ100本プレイして出直してこい。
・主人公においても白痴性ってあるんじゃね。
・そしてそれらの白痴性には、「泣きゲー」において過度に強く配されているように、泣きゲーとのある種の相性の良さがあるのかもしれない。
・あと欲望というのは単純ではなく何重にも屈折する。てゆうか自明性のあるものではない。
以上。
あと最も言いたいことは――ああ、またこの話題かとうんざりするのだけれど――エロゲの話をするのにエロゲやってなくても構わないけど、でも、ホントにやってないんなら、そこを弁えて語っていただきたいですね、ってこと。別にエロゲに限った話ではない、なんだってそうでしょう。ボール蹴ったことない人がサッカー語っても勿論構わないけど、まさか、それなのに「俺の方が上手い」なんて口調で語ってはいけないでしょう――だってその瞬間に君の言は、君が優越感を得たいから語っているだけの不誠実なものに見えてしまうから、そのくらい「不誠実」だから――、というのと同じレベルの話。

*1:もちろん「俺つば」とか「星メモ」とかも泣くことが出来る作品でもあるけれど、しかしそれ以外の要素もてんこ盛りであり、つまり「泣きゲー」という評価は誰も下していない。

*2:PS版エクソダスギルティーにおいて

*3:もちろん彼の作品は「泣き」だけではなく、だからこそ「泣きゲー」と呼ぶのははばかれるものであり、実際に誰も”そんな風には呼んでいなかった”(そもそも泣きゲーという名称が発明されていなかったのだ)。つまりこれは事後的な仮構である。

*4:服装は多少関わってはいるけど。

*5:正確な文面は忘れてしまったが、内容はこんなこと。

月光のカルネヴァーレ(2007、Nitroプラス)

月光のカルネヴァーレ月光のカルネヴァーレ
(2007/01/26)

なんかぶっちゃけ書くことないので、twitterにPOSTしたことの転載。


やはり「これが日常」みたいにやられると(明文化されると)つまらないよなぁ。カルネヴァーレプレイ途中の感想。カルネヴァに限った話ではないけれど(しかし最近のエロゲでは結構見かける気がする)。日常なんてものは本来存在せず、擬制で、遡及的に導き出されるものである、ということを考えるべきだ、とか思っちゃいます。過ぎ去ってから、日々が「日常」に位置づけられる/固着するのですよん(ドゥルーズ・潜勢性/遡及的過去生成)。「日常」とは果たして何か、といえば、別の――ありとあらゆる(一般的な意味での)概念と同じく、「差異」のうちに垣間見えるひとつの点(あるいは面/場)でしかない。その形成は無論、差異とともに在る時にしか生まれ得ない(だから”遡及的”なのだ)。そのへん、エロゲにおいて「日常」が謳われだした始祖とも云える麻枝准高橋龍也氏はよくご存知で。過ぎ去った後にだけ、日常が生まれるようになっている。作中において(おける)「大文字の日常」を仮構する、それがいかに”日常ではないか”、そのところを始祖は良く分かってるわけです。対し現代では「この時間が日常」というのを”この時間に在りながら”モノローグさせちゃうように、日常を仮構し、ラベリングし、押し付けている。まったくもって、我われプレイヤーにおける「差異の内から発見された」日常ではなく、差異がなくともハナから存在している「日常」として、ある種インスタントに(手軽さと、(プログラミングで用いるアレのような)複製さ)生成されている。
しかしこれは、ある意味では正しい。「主人公のモノ(主人公の日常)」としては。我われにとって差異なくとも、彼にとっては既に差異がある。その意味で、カルネヴァーレにおけるその扱い方は正しいでしょう――主人公の自律性という意味では、より現代エロゲ的に正しい。ただ他の凡百のエロゲにおいては何の憂慮もない酷いインスタントさが目に見えて困るときも結構あるけどね!(アレとかアレとか) ――なんてことはない、手軽に楽しめるように、インスタント化してしまっただけであり、経済的に正しい後退であるのです。
戦闘だるいっつうのもありますが、やはり、奈良原一鉄の世紀に居るわれわれにはこれはもはや――「もはや」としか言いようが無かったりするわけです。ウロブチ世紀ではあるかもしれないけど、奈良原世紀ではない。それは何かといえば、この全体を雁字搦めに貫く「二項対立」と「囚われ」ですね。所与の前提、同一性、主体客体、価値と意味、それら全部を棄却するところからはじまる奈良原通過後には、二項対立とか「そもそもそんな二項なんてないんじゃね」という疑義が止まず収まらない。
しかしそれを反転して肯定に向かいましょう。つまり、カルネヴァーレは、二項対立と囚われを一貫している――それらにさらに囚われている――ゲームである。良し悪しは別として。否。ここまで貫けば、そういう意味では「良い」のだ。判断は別として、という話である。
「がんじがらめ」「いかに縛られてるか」というお話である。そうなのだから、勿論、がんじがらめや縛ってるものと対立するお話である。つまり、がんじがらめや縛っているものと戦い・それを乗り越える、お話である――あった。
人狼・人間・人形/過去・現在/オルマロッサ・ルパーリャ ――二項対立・かつ縛るもの。 血/親父(頭目)/運命・糸/そして自分の思いすらも ――己自身を縛るもの。
基本的に、そうやって「切り取る/分割する」所作だらけなんだけど、まあ逆にそれを評価するべきなんでしょうかね。たとえばノエルシナリオで強く出てきた「生きてく意味」とは(という言葉とは)、尊いものでも超越的なものでもない。いや、尊さや、超越的な身振りを仮構するもの、とは言えるでしょうが。「生きてく意味」。それは、ある観点から生を切り取る所作に過ぎない。生にはありとあらゆる可能性があり、そも現在性があり、さらに潜在性がある。にも関わらず、「その意味」で生を切り取れば、その意味にそぐわない事物は生において余剰・過剰なだけのものとして廃棄されるか、あるいは、個々の事物の意味や意義が剥奪され、ただ「その意味」に回収されてしまうだけである(もちろん、そこにおいて、余分は余分として処理されるだろう)。 ――そう、だから、たとえばそのように。「切り取る」というのは、分割されていないものを・分割不可能なものを、無理矢理分割して、その権威に他の事物を従わせる所作――仮構に過ぎないのです。
だがしかし、そうでなければ、人は生きていけないとも言えるでしょう。いや、むしろ、人が生きている場は常に分割されていて、だからこそ、分割された表象こそが人の生きる場なのだから、対応項もそれで良いのだ、と言えるかもしれません。カルネヴァーレは、そういったものを徹底的に貫いた。―――ということは、つまり、そういうことなのでしょう。

対象aとしてのサブヒロイン


サブヒロインというのはシナリオがないから輝くのである。シナリオが無いからサブヒロインなのであって、そもシナリオがあったら彼女はサブヒロインとしての存在を維持できなくなりサブヒロインとしての彼女は消失せざるを得なくなるのですが、それはともかく。サブヒロイン。当たり前ですが、彼女の個別シナリオがあったら、「そのお話が彼女の正史」になる。たとえ三角関係の一角や淡い失恋の痕跡のようなものをどっかのシナリオで混入されても、個別シナリオがあるならソレは無意味・無駄になるのです。
翻り、個別シナリオがなければ、誰か他キャラのシナリオにおける彼女の失恋も、それは、彼女の正史のひとつとなる。あるいは「仮の」正史となる。『ましろ色シンフォニー』の紗凪とかそうです。もしも彼女のシナリオがあったら、彼女の「本当」はそっちになっていて、みう先輩ルートの失恋とかただのシミュラークル遊びに成り下がり輝きは失墜していたのは火を見るよりも明らかでしょう。
分かりやすい例として『CLANNAD』の藤林椋シナリオがあります。もしも椋シナリオがなかったら、(杏シナリオによって)椋は沙凪的なポジションを得ていたでしょう、しかし、椋シナリオがあるのだから、杏シナリオにおける椋の失恋も何もが添え物・鞘当にしかならなかった。なぜなら「椋の本当・リアル」は他にあるから(=彼女のシナリオがあるから)。杏シナリオの椋は彼女のリアルではないわけです。彼女の「正史」ではない。これは他のキャラでも同じでしょう、杏ルートにおけることみは「ことみにとってのリアル」ではないし、風子ルートにおける智代が「智代にとってのリアル」なわけでもない。みんなそれぞれ、自分のシナリオが「自分にとってのリアル」として存在している(そしてそれが、同時的に、等価で並列しているのです)。個別ルートがあると、個別ルート以外はシミュラクル遊びに成り下がっちゃうわけなのです(ただ勿論、トゥルールートやグランドルートがある場合は除くのですが)。

ここでは、「誰か他キャラのシナリオにおける彼女の失恋も、それは、彼女の正史のひとつとなる」と記しましたが、それが正史のひとつではなくマジ正史に見えてしまうところが面白いでしょう。個別シナリオというものを正史判断の基準に据えて見れば、たとえば『ましろ色シンフォニー』の紗凪というのは、彼女のシナリオは無いわけですから、愛理シナリオにおける彼女も、桜乃シナリオにおける彼女も、アンジェシナリオにおける彼女も、みうシナリオにおける彼女も、全部同質で同等で等価である筈なんです。なのに唯一紗凪が失恋することとなったみうシナリオにおける紗凪が、紗凪のリアルのように”見えてしまう”。――あのシナリオが、最も紗凪に近づき、最も紗凪を語っていただけに、最も彼女のリアルのように見えてしまう。彼女の人生でいちばんあり得そうな話――正しくは、彼女の人生で主人公を絡めた場合いちばんあり得そうな話――としての「彼女のリアル」。
そう、ここでは転倒が起きています。別に主人公といい感じにならなくても彼女のリアルだろうに、だが、僕たちは「そこにこそ」可能性を視てしまう。「見る」という我われの主体を必須とする行為なのだから、そうなるのは当たり前ではあるのですが、しかし、ここでは「彼女たち自身」という主体は喪失されている。つまり、彼女たちが主人公との恋愛とかマジどうでもいいよとか思っていても関係ない。いや、むしろ、”関係できない”。そういった転倒がある。たとえば我われは『明日の君と逢うために』をプレイすれば、七海が唯一(ちゃんと)失恋する先輩シナリオにこそ七海の正史としての可能性を幻視してしまうし、『真剣で私に恋しなさい!』では、心と一番いい感じになる(選択次第ではその後も示唆される)まゆっちシナリオにおいてこそ彼女の正史としての可能性を幻視してしまう。その幻視は彼女たちとはまったく関係なく行なわれる。私たちが「描かれきれなかった」ところから、つまり失恋から、もし失恋しなかった可能性の線を辿り勝手に見ている幻想である。それはシナリオがあれば昇華される。理屈は簡単で、個別シナリオがあるヒロインはほとんど100%の確率で恋愛は成就するのに、個別シナリオのないヒロインはほとんど100%の確率で(最終的には)恋愛は成就しない。つまり僕たちは知っているのです、彼女たちの恋が上手くいかなかった理由の本質的なところは、性格の不一致やタイミングや巡り合わせなどではなく、単純に彼女たちがサブヒロインだったからだってことを。サブヒロインの恋は報われないように出来ている*1――だって報われてしまったら物語が出来てしまってそれがルートになって、それでは彼女はサブヒロインじゃなくなってしまうでしょう?
そこに見る幻想が、僕らに彼女たちのシナリオを要求させる。残念ながらサブヒロインは失恋の運命に支配されている。残念ながらサブヒロインは自由ではない。サブ”ヒロイン”という言葉の通り、彼女たちは”ヒロイン”であるという呪縛から解き放たれない。失恋しようが、特に話に絡まなかろうが、彼女たちの人生はそれはそれでちゃんとした、価値ある、”本物の”筈ではあるけれど、そうはプレイヤーが許さない。我われはこの瞬間だけ独善的なエミヤシロウとなり、「もっと幸せになれるのに、そうなれないことは許せない」と叫ぶ。”もっとの幸せ”――それは本当の人生でも彼女のリアルでもないかもしれない、けれども。それを本物にしようというのが、僕たちがサブヒロインに抱く幻想なのだ。

*1:当て馬的に上手く行くことはあっても、最終的には(あるいは、上手くいった場合は主人公におけるBAD ENDだったりする)。